情緒でわかるということは、なんとなくわかったような気分になるということとはまるで違う。
よく私たちは、「頭では理解できるけれど、どうも腑に落ちない」という類の表現で、相手の話に対する納得しきれない心的状態を吐露することがある。この「腑」とは「はらわた」、つまり内臓のことであり、そこまで考えが染み透らないと、ほんとうにわかったとは言えないから、このような表現があるのだろう。
もう三十年近く前の話である。大学院生のとき、デイヴィッド・ヒュームの『人間知性研究』を英語原典で購読する演習で、ある日のこと、私を含め出席していた学生たちが様々な解釈を述べた後、それらに対して先生が「どうも腹の底からわかったという気がしないなあ」と首を捻られたのがとても印象に残った。今でもその時の教室の雰囲気をよく覚えている。そうか、わかるということはそういうことか、と、いまだ本当にはそういう経験をしたことがなかった私は、わかるということは身体的に生き生きとした感覚を伴うものなのだということにそのとき気づかされた。
あることが情緒でわかるようになるということは、そのような身体感覚を伴うだけでなく、自分を取り巻く人たちおよび私たちが生きている世界との関係がそれ以前と以後とで変容する経験なのだと思う。知的な理解に留まるかぎり、仮に世界をそのように見ることにも合理性があるとまでは言えても、その理解の仕方にしたがって自分の感覚に変容が起こるわけでもなく、認知される世界はもとのままであり、私は相変わらず他者と世界に対して以前と同じような行動を反復する。実際、何も変わってはいないのだ。
情緒は他なるものとの共生の根柢にあってそれを可能にしている共感的パトスのようなものなのではないだろうか。