専門職としての通詞は、幾五郎が生まれるかなり以前、儒学者雨森芳洲によって大きく変貌していた。芳洲は通詞について「館守・裁判・代官と並ぶ切要な役人」(『交隣提醒』)と述べ、国の重大事にかかわる要職が商人の家庭教育頼みだったことに強い危機感を抱いていた。そこで亨保十二年(一七二七)、対馬府中に藩営の通詞養成所を創設させ、ここに六十人商人の子弟を中心とする生徒を募集して、現役の通詞中を総動員し育成強化を図った。単なる「言葉上手」ではない、「才智」「篤実」「学問」を共に備えよと、朝鮮側の日本語通詞(倭学訳官)に劣らぬ、知識人を目指した英才教育が実践されていく。通詞職の組織も補強され、これまで大通詞・本通詞・稽古通詞だった構成員に、新たに「五人通詞」を稽古通詞の下に置くこととした。さらに養成所で優秀な成績を収めた者を、公費で和館留学させる「詞稽古御免札」の制度も整えられた。
小田幾五郎は、安永三年(一七七四)二十歳のときに「詞稽古御免札」を受けている。御免札は、通詞養成所での訓練を受けた者に限られることから、芳洲の教育方針に沿った特訓を受けたことは間違いない。厳しい留学時代を終え、ここからさらに本役である通詞中へと進むとなると、人数はさらに絞られてくる。芳洲は「本役を勤められるほど、言葉もよろしく、朝鮮の事情を弁え、才覚もあるという者は、中々五年や十年では仕立てることはできない」と述懐したように、本役への道は遠く険しいものがあった。
幾五郎は、詞稽古御免札から僅か二年後の安永五年(一七七六)、二十二歳にして本役の一員「五人通詞」に採用されている。その後、稽古通詞から本通詞へと順調に昇進を重ね、四十一歳にして通詞中の最高位「大通詞」に抜擢された。本役採用から四十六年間にわたり現役通詞を勤め、六十八歳にして退役し、以後は後進の教育に当たるという、まさに通詞職ひと筋に捧げた人生であった。
幾五郎が類まれな優れた通詞であったことは、藩が与えた数々の褒美から知ることができる。それらの褒美は、通詞としての力量を認め、かつ誠実で実直な性格を褒め称えたものであるが、幾五郎の卓越した仕事ぶり窺わせる事績も紹介されている。幾五郎は自らの出費を厭わず、朝鮮側の訳官たちと積極的に交誼を重ね、難航する交渉事も結果的には藩の望む方向へと円滑に導く通詞であったようだ。交誼を深めた朝鮮の訳官たちから様々な朝鮮事情を収集し、藩の御用に役立つ書物に仕立てて献上した。
これらに加え、後進の指導にも他の通詞にはみられない篤い志をもって臨んだ。後進の指導に対し、教科書とすべき書物の充実から、創意工夫を凝らした懇切丁寧な指南法まで、幾五郎は朝鮮との事に「踏みはまり」、その卓越した能力を通詞職ひと筋に捧げた。
文化四年(一八〇七)、易地聘礼交渉をめぐって、幾五郎はあらぬ嫌疑をかけられ、和館での謹慎蟄居を命ぜられる。謹慎から三年後の文化七年(一八一〇)、禁足状態のまま帰国し、さらに本国での取り調べを受ける。幾五郎の禁足が解けたのは通信使の対馬滞在中で、一行が朝鮮へ帰国するとき大通詞の身分のまま賄通詞を仰せ付けられている。
幾五郎は『通訳酬酢』(序書)に、「後進通詞のために、私が見聞したこと、あるいは随時交わした議論を集め、文化四年(一八〇七)から書き始め、文化十五年(一八一八)までに十二編にしてこれを袖中の書とした」と記述している。禁足によって交渉現場から遠ざけられた幾五郎が最初にとった行動は、後進通詞のため自己の体験で得た訳官たちとの会話実例を著述にして残す作業であった。当初『通訳実論』と名付けられたこの書物は、長い期間「袖中の書」とされ、表に出されることはなかった。この書物が『通訳酬酢』として最終的な完成を見るのは、天保二年(一八三一)、幾五郎齢七十七歳のときのことであり、同じ年の十一月に亡くなる二~三ヶ月前のことである。