André Lalande の Vocabulaire technique et critique de la philosophie の véracité の項を読むと、昨日見た TLFi の定義からだけでは明らかではないことがさらにいろいろとわかる。
まず、véracité は bonne foi や sincérité 以上のものだということである。これらには誠意とか誠実という訳語を与えることができる。誠意や誠実であるためには、自分の言っていることが真実であるという確信は必ずしも必要な条件ではない。そのような確信は持てないままでも、人に対して誠意を尽くし、誠実であることはできるからである。ところが、véracité の場合は、単に間違わないように気をつけるだけでは十分ではなく、自分の言っていることが真実であると信じてもらえる人であるために必要な物理的・心理的・倫理的諸条件の実現にできるかぎりの手を尽くすということが含まれる。
この違いについての Lalande 自身の同項目への注記によると、« Il m’a trompé de bonne foi » と言うことはできても、« Il m’a trompé avec véracité » と言うことは馬鹿げている。なぜなら、それは矛盾しているからだという。前者は、「君を騙すつもりはさらさらなかった。君に良かれとおもってそうした。ところが、結果として君を騙すことになってしまった」というような場合が当てはまる。ところが、後者の場合、「私はそれが正しいと確信しているから、君を騙したのだ」ということになり、確信されている真実をもって人を欺くという矛盾がそこにはある。せいぜい « malgré sa véracité habituelle » 「日頃彼は間違ったことは言わないし、しない人なのに(私を欺いた)」という言い方ならありうるだろうと Lalande は言う。
Véracité は bonne foi や sincérité にはない真理への強い志向性がある。これはもともとこの語がデカルト哲学において神の véracité (神は自らを欺ことはないし、人を欺くこともない)として使われていたことと無関係ではないと思われる。この語が人間の徳性について使われるようになったのは18世紀前半からのことのようだが、その場合でも、あることが真実であるとただ主観的に確信していることを意味するのではなく、真理への明らかな志向性とそれに合致した生き方の実践を意味している。
さて、再び日本語訳の問題に立ち戻ろう。10月7日の記事で言及した『武士道』の四つの邦訳では、 veracity は「信」(山本訳)、「信用」(大久保訳)、「誠」(奈良本訳)、「信実」(矢内原訳)とそれぞれ訳されていた。この語を「信」と訳すことの不適切さはすでに十分明らかであろう。ましてや、これを「信用」と訳すのは誤訳以外の何ものでもない。「誠」という訳語は、véracité に確かに含まれる倫理性は捉え得ているが、真理への志向性が明示的ではない。「信実」という訳語が四つの訳語の中では最も適切な訳だと思われるが、「利害打算を離れた誠実な心」(『新明解国語辞典』)ということであるから、やはり倫理性に重点が置かれている点では「誠」と同じである。
結論として、既存の日本語の中に véracité の適訳を見出すことはできない、と言わざるを得ない。真理への志向性とそれと合致した生き方の実践という意味を込めて「信真」という造語を提案することくらいしか今の私には思いつかない。
以上をもって、はなはだ不十分ではあるが、véracité についての考察をひとまず終えることにしたい。