内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

追悼の意を込めて書かれた文章について

2021-10-17 20:59:10 | 雑感

 午前4時起床。5時より原稿執筆再開。8時前にほぼ完成。結びはあえて書かなかった。一日「寝かせて」から仕上げるつもり。8時32分から10時9分までジョギング。走行距離15,7キロ。主にロベルソーの森の中を走る。この季節、落葉が土の小道を覆う。その上を走るとき、それがとても気持ちのよいクッションになる。走る喜びを感じる。
 今回執筆した文章は、この8月に亡くなられたフランスの哲学者の追悼号のために書かれた。公になる文章として追悼の意を込めて書くのはこれがはじめてだ。ある人から推薦を受け、編集者からの依頼に応じる形であった。何をどう書くか、一ヶ月以上思案した。結び以外は書き終えた今もなお、これでよかったか、まだ自問している。しかし、ほかにどういう書き方があったかと自分に問えば、こう書くしかなかったとも思える。
 引き比べるのは僭越でしかないが、吉本隆明の『増補 追悼私記』(洋泉社 1997年)の「あとがき」の以下の一節が心に深く染み込んだ。

いったい死者を悼むために書かれた文章のなかで、わたしは何をしようとし、どうなっているか、腕をこまねいてかんがえこまざるをえなかった。そのあげくいくつかのことに気づいた。もしこれらの追悼の文章に共通項があるとしたら、死を契機にして書かれた掌篇の人間論というほかないということだ。そしてただの人間スケッチの断片とちがうところを強いていえば、痛切(切実)がモチーフになっているということだ。だがこの痛切(切実)ということにも偽感情がまじっていないことはない。これはわたし自身にもわかるくらいだから、読む人はなおさらそう感ずるにちがいない。でもこの偽感情はわたしの人格からくるというより、よりおおく死者にたいする私なりの礼節からきている。それで赦されているような気がする。

 私の場合、赦されているかどうかさえ、わからない。稚拙な文章で故人の名を汚しただけなのかも知れない。それでも、感謝の気持を込めて書いたこと、これだけは信じてもらいたいと思う。