新渡戸稲造の『武士道』第七章には、そのタイトルも含めて、Veracity という言葉が十一回使われている。もともとは哲学的・神学的用語で、神が人間の認識の真実性を保証することを意味したが、十八世紀以降、人間について、真実を言う人の徳性を示すようになった。しかし、これは、その人が常に真実しか言わないということを必ずしも意味しない。本人が真実だと信じていることをそのとおり言う場合もあるからである。しかし、その本人がそのとき真実だと信じていたことが、後に実は真実ではなかったと判明したとしても、その人の Veracity が損なわれるわけではない。
さて、この語をどう訳すか。仏訳は何の問題もない。 Véracité という同義語がある。というよりも、こっちが本家なのだから。ところが、日本語に訳すときに困る。日本語にはちょうどこれに相当する概念がない。「正直」が近いが、これは、包み隠さずに言う、嘘をつかない、ごまかさない、ということで、真実を言うという積極性に欠けるきらいがある。報告や話の Veracityについては、「真実性」という訳語をあてることができるが、人の徳性について「真実性」は使えない。新渡戸自身は、英語で『武士道』を書きながら、どんな日本語を思い浮かべていたのであろうか。あるいは、そもそも日本語で考えようとはしなかったのだろうか。
私の手元には、『武士道』日本語訳が四冊ある。矢内原忠雄訳(1938年)、奈良本辰也訳(1993年)、山本博文訳(2010年)、大久保喬樹訳(2015年)の四訳である。それらを比較して、私は考え込んでしまった。このいずれかの日本語訳しか読まずに新渡戸の真意を理解することはかなり困難に思えるからである。では、四つを比較すれば理解が深まるかといえば、ある程度はそうだろうが、それですべての問題が解決するわけではない。
では、英語原文と照らし合わせてみればどうか。もちろん、それがより正確な理解を可能にしてくれることは確かだが、新渡戸が本書の重要諸概念に込めた意味は、必ずしも一般的な英語の用法とは限らない。新渡戸自身が武士道だと考えるところのものを説明するのにそれらの概念を動員するその仕方は、いくらか強引な場合もあり、かつて本書を読んで熱狂した欧米人たちの Bushido 理解は、新渡戸がそう理解してほしいと望んだものとずれている場合も少なくなかっただろうと想像される。
私が『武士道』を読んで覚えるどうしようもない違和感は、非礼を承知で言えば、実際にはどこにも存在したことがないお伽の国の話を真実として延々と聞かされているような居心地の悪さと言い換えることができる。皮肉な言辞を弄することが許されるならば、新渡戸その人の Veracity を私は信じることができるが、語られていることの真実性は、特に歴史的真実性は、これを認めることができない。
しかし、こう言ってしまっては身も蓋もない話になってしまう。もう少し辛抱して、原文と日本語訳の比較検討を続けてみよう。