一昨日の記事で、veracity について、報告や話の真実性についても使われると言ったが、誤解を招かないためには補足説明が必要だ。その真実性(あるいは信憑性)は、報告者や話者とは独立に提示可能な客観的な証拠によって保証されるものではない。言い換えれば、その真実性は報告者や話者その人の徳性に依存する。つまり、「あの人がそう言っているのだから、きっとそれは真実なのでしょう」と言わせるだけの徳性をその人がもっているというのが veracity の唯一の根拠なのだ。
そんな客観性を欠いた信頼性にのみ依拠してある人の言ったことを信じる態度は、真理の探究とは相容れない。しかし、私たちの実生活では、この veracity に依拠せざるを得ない場合が実にしばしばある。例えば、私たちがまったく専門知識を欠いている分野について、その分野の専門家の言うことを正しいとして受け入れるのは、その発言内容そのものの真偽を私たち自身が科学的に検証できない以上、その発言者の veracity に拠ってである。
私はこのことを福島原発事故以降の専門家たちの発言をネット上で追いながら痛感した。そして、昨年来のコロナ禍で再度そのことを痛感させられた。私たちの生活の多くの部分は、真理によって支えられているのではなく、veracity という誰もが備えているわけではない徳性に依存している。その依存度は、それにまったく依存することなしに私たちの日々の生活が成り立つのかどうかさえ危ぶまれるほどだ。
だから、新渡戸の『武士道』の文脈からは離れるが、veracity を重要な徳目の一つに数えることには私も異存はない。しかし、問題は、veracity は、新渡戸自身が認めているように、それ自体で善であるような最上の徳目ではない。自らが真実だと信じていることをそのとおり言うことがいつも最良の選択であるとはかぎらないからだ。それがたとえ勇気ある行為だとしても、その結果として、周囲を混乱に陥れることが明らかである場合、veracity は、それ以外の価値基準によって制限されなくてはならない。
その価値基準は、新渡戸が挙げている徳目においては、義あるいは仁である。しかし、義がすでにすべての人に十全に明らかであるならばともかく、現実にはそうではない。すべての人が仁を備えていれば、すべて丸く収まるであろうが、そんな社会もユートピアでしかない。
このような条件下で倫理的に可能な在り方は、誰か或いは何かに忠誠を尽くすことである。自分自身は義を十分には理解してはいないし、仁を十分に備えてもいない。そのことはよく自覚できているとしよう。そんな自分が真実だと信じていることをいつもその通り言うことが正しい行いだとはかぎらないことも認めなくてはならない。残された道は、絶対的忠誠を守り通すことしかないのではないか。
しかし、忠誠を尽くす相手あるいは対象について、それが選択の余地なく予め定められている場合であれ、自らそれを選ぶことができる場合であれ、その相手あるいは対象に忠誠を尽くすことが最善である保証はない。つまり、忠誠もまた最高善でも最終的な善でもない。
「名誉」が最高善であるということもありえない。新渡戸自身、それを「名」「名目」「外聞」と日本語で言い換えていることからもわかるように、本来相対的かつ外在的な基準に過ぎない。それが固定されており一切変更できない社会の中でこそ、名誉を守ることは輝かしい徳目でありうるだろう。
『武士道』を読めば読むほど、そこに展開されているユートピアからどれだけ今自分が生きている社会がかけ離れているかがますます痛感されるだけである。