内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

小田幾五郎 『通訳酬酢』― 人のこころを知るということ

2021-10-03 03:30:22 | 読游摘録

 『通訳酬酢』の田代和生の解説からの摘録を続ける。
 一昨日の記事でも断ったことだが、上掲の書名中の漢字「酢」は正しくない。正しくは、「作」が旁である。不本意だが、以下、書名を示す際、「酢」に置き換える。
 『通訳酬酢』は、「通」と「訳」との会話が基調になっている。そこには両班中心の社会批判、政治体制への不満等々、朝鮮社会が抱える多くの問題点が赤裸々に語られており、外国人、とりわけ隣国である日本に知られてはならない機密事項が多く含まれている。これらを包み隠さず「通」に語ってくれた「訳」は、『通訳酬酢』の各巻に実名をもって登場する。幾五郎の最大の懸念は、「唇歯のごとく親しい交流を重ねた」(序書)訳官たち、つまり情報提供者に害が及ぶことであり、ここに『通訳酬酢』が門外不出の書とされた所以があったと考えられる。
 本書で触れられているテーマは、礼儀、船、東アジア情勢、外国、自然、信仰、怪奇現象、歴史、文学、浮説、政治、制度、軍事、官職、音楽、女性、飲食、産業等々といった、多種多様な分野にまたがっている。しかも各巻は必ずしも個別のテーマに限定されず、包括的な情報とそれに対する考察が、「通」と「訳」とのテンポ良い会話口調で記述されている。他所で触れた一つのテーマは、視点を変えてまた別の巻でとりあげられ、それらが相互に複雑にからみあうことで、多角的かつ重層的な会話が縦横に展開される仕組みになっている。
 『通訳酬酢』の会話の行方をたどると、小田幾五郎が何を伝えたかったか、その真髄が見えてくる。「議聘御用」の担当通詞を外され、和館と国元で合計四年近く、あらぬ嫌疑で禁足状態に置かれ、対馬易地聘礼の表舞台から遠ざけられた苦悶の日々。しかしそれでも『通訳酬酢』(序書)に「訳官と日常の交わりの中で、決して実直を失わないこと。そうすればあちらが悪巧みを仕掛けてきても、最後は正しい道に従うことになる」の言葉は、まさに後進通詞への戒めでもある。この「実直」が「誠信の本意」に繋がる。「誠信」とは、双方の実意を知った上で、互いの違いを理解し尊重するという、かつて日朝交流に生涯を捧げた対馬藩の儒者雨森芳洲の言葉に他ならない。芳洲の没年に生を受けた幾五郎は、時空を越え、形を変えて『通訳酬酢』を後進通詞へ託した。そしてその序文の最後に「通詞私の心得」と題する和歌を詠んでいる。

通弁は秋の湊の渡し守り
  往き来の人のこゝろ漕ぎ知れ

小田幾五郎が到達した「人のこゝろ」を知ることは、まさに芳洲が求めてやまなかった理想の通詞そのものの姿であったといえよう。