今日の授業では原作ドリアン助川・河瀨直美監督の『あん』を教材として授業を行った。その準備として、原作を再読していて気づいたことがある。それは原作の初版2013年(ポプラ社)と同社の「ポプラ文庫」版(2015年)との間の違いである。仏訳(2017年)は初版に依拠していて、両者の比較は過去に何回か行っていたのだが、原作の初版と文庫版は両者の出版年に二年しか間がないから本文はまったく同一だろうと思いこんでいて、文庫版はこれまで注意深く読んでいなかった。今回、文庫版と仏訳を比較しながら全文読んでみて、両者に一致しない箇所があり、不審に思って原作初版と文庫版を比較してみると、こちらの両者に違いがあることがわかった。
その違いは、千太郎の吉井徳江に対する呼び方にある。千太郎が徳江からもらった最初の手紙に対する返事の中で、初版では文中の呼びかけが徳江の名字である「吉井」に「さん」付けで通されており、それは二通目の手紙でもそのまま「吉井さん」になっている。ところが、文庫版では、最初の返事のはじめの方で「今日からは徳江さんと呼ばせて下さい」と千太郎が呼び方を変えているのである。当然、第二の手紙の中も「徳江さん」という呼び方で一貫している。
この変更に関して、文庫版には著者によるなんの注意書きもないが、文庫版発売前に撮影が開始されていた映画の中での呼び方と関係があるのではないかと思う。映画では、最初の返事を出す前から、千太郎(永瀬正敏)は店の先代の奥さんで「どら春」の現オーナーである「奥さん」(浅田美代子)に対して徳江(樹木希林)のことを「徳江さん」と名前で呼んでいる。それを観た原作者ドリアン助川が文庫版では手紙での呼びかけ方を変えるというかたちでそれに応じたのではないだろうか。
初版でも文庫版でも、映画と違って、吉井徳江をめぐっての奥さんとの最初のやり取りでも二回目のやり取りでも千太郎は「吉井さん」と呼んでいる。初版では、最後まで、本人に対しても、他の人たちに吉井徳江のことを話すときにも、呼び方は「吉井さん」だったが、文庫版では、途中から「徳江さん」に変えることで、千太郎の吉井徳江に対する親近感の強まりをよりはっきりと示そうとしたのだろう。