内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

貧困化する社会が大量に生み出す「聖職者」たちによって支えられている富裕層

2022-11-16 23:59:59 | 雑感

 高校二年生のときだったかと思う。仲良し三人組とまでは言えないかもしれないが、よくツルンでいた友人が二人いた。三人揃えば大抵は共通の他愛もない話題や趣味の話でうち興じていた。
 ときどきは結構シリアスな問題で議論することもあった。ただ、そういうときはもっぱら、二人のうちの一人と私との間の議論であって、もう一人は、私たちの青臭い議論に対して、さもつまらないという態度を露骨に示した。それでも二人で熱くなって議論し続けていると、彼はふとその場から立ち去るのを常としていた。
 ところが、あるとき、もう何がきっかけだったかはまるで覚えていないのだが、確か私が警察組織に対してかなりあけすけな批判をしたときだったか、突如、その「無関心」君が、「でも、聖職だぜ」と、私に向かって真顔で言い放ったのである。
 「聖職」という言葉を知らなかったわけではないが、めったにお目にかからないし、耳にすることも稀で、ましてや自分で使ったことなどなかった(以後、現在までの半世紀近く、使ったことがほとんどない)ので、このまったくの抜き打ちに面食らってしまい、返す言葉も出て来なかった。警察官が聖職であるという考えが私にはまったくなかったことと、彼が確信をもって「聖職」という言葉を警察官について使ったこととの間の大きな社会認識の隔たりにすっかり困惑してしまったのだと思う。議論はそこで打ち止めとなって、別の話題に流れていったように記憶している。
 手元の『新明解国語辞典』第八版によると、「聖職」とは、「キリスト教の僧職。〔広義では、教師・牧師など、単なる労働者・サラリーマン以上の奉仕が期待される職業をも指す〕」とのことである。警察官を「聖職」と考えるとすれば、それはこの広義においてということになるが、私にはピンとこない。ほとんど定義にさえなっていないと思う。
 何をすれば奉仕になるのか。何あるいは誰に対する奉仕なのか。もし教師が生徒たちのために給与以上の働きを無報酬ですれば「聖職」ってことになるのだろうか。教師に限らず、給与以上の働きをすれば、みな「聖職者」になってしまうのだろうか。それならば、安月給でこき使われ、サービス残業で疲労困憊している労働者たちだってみんな「聖職者」じゃあないですか。
 上掲の定義をこのように解釈してよいのならば、格差社会において深刻の度を増す一方の貧困化は大量の「聖職者」を産み出しているのであり、一部の富裕層はそれら「聖職者」の犠牲によって支えられているという結論に至らざるを得ないと私は愚考する。