今日からウクライナ語の短編小説の日本語訳を目的とした演習が本格的に始まった。ZOOMを使って一時間余りで六〇〇字ほどの訳文が一応できた。昨晩、たった一人の受講生であるウクライナ人女子学生から、私訳、過去に出版された仏訳、ウクライナ語原文が送られてきた。今朝九時からの演習直前に、彼女が準備した日本語訳と六〇年代に出版されたらしい仏訳の当該箇所、それにその仏訳をベースにして彼女自身が原文のニュアンスをより正確に伝えるために修正した仏訳に目を通しておいた。
演習では、それらを参照しつつ、二人で話し合いながら、日本語訳を推敲していった。ウクライナ語がまったくわからない私は、仏訳を頼りに、まず、時代背景、社会背景、登場人物の性格、年齢、社会的立場、家族環境等について、次に、訳された場面の作品内文脈について彼女に説明してもらった上で、一文一文検討していった。この作業が実に面白かった。
当該場面は、ソビエト連邦体制下のウクライナにおける反体制派の監視役を務めることで心身ともに疲労困憊している三十代の息子とそのような息子の仕事を深く憂慮する年老いた母親との間の、息子の寝室内での薄暗い常夜灯の下での会話である。
息子の自称詞を「俺」にするか「僕」にするか、母親についての叙述の中で母親を指す言葉を「母」とするか「母親」とするか「彼女」とするか、息子の母親に対するいささか屈折した愛情と距離感を表現するには常体がいいか敬体がいいか、常体にするとして、ちょっと冷たさを感じさせるような表現を選ぶべきか等々、一文一文、いや一語一語に対して、選択の問題が生じ、その都度私が日本語のニュアンスを説明し、それに対して彼女がウクライナ語原文のニュアンスとそれが対応するかどうか確認しつつ、翻訳推敲作業は遅々と、しかし楽しく進められた。それぞれの問題箇所に対して解決案が見出されるごとに、少しずつ霧が晴れていくように小説の場面が眼前に立ち現れてくるのには私もいささか興奮した。
一時間あまりで訳の推敲を終え、「今日はこの辺にしようか」と私が言うと、「本当に面白かったです。ありがとうございました」と彼女は日本語で返してきた。その言葉に偽りがないことはその声の調子からわかった。
過去に仏語の哲学書の日本語訳は出版したことがあるが、文学作品の訳を試みるのはこれが初めてである。しかも、原文はまったく読めないのであるから、訳しているとは厳密には言えないし、隔靴掻痒の感なきにしもあらずではあるが、一外国文学作品のこのような鑑賞の仕方はめったに経験できることではない。フランス語と日本語ができる一人のウクライナ人学生のお陰で、得難い機会を得られたと喜んでいる。