中間試験の答案の採点やら査読やら、万聖節の貴重な一週間の休暇の間にやっておくべきことがあり、それらを一昨日箇条書きにして溜息をついていたところ、シモンドンについてのとても興味深い論文二本にネット上で出逢ってしまって、それだけでも想定外で興奮するやら困惑するやら心が乱れていたのに、その論文の筆者の手引きでシモンドンからホラティウスの詩句へと導かれ、そういえばモンテーニュはホラティウスをよく引用していたなと、『エセー』を紐解いてホラティウスの詩句を引用されている箇所の前後を読んでいると、「やっぱりモンテーニュっていいよなあ」と仕事そっちのけで『エセー』に読み耽りそうになり、「まずいなあ、この展開」とかすかな罪悪感がうごめき始めたと思ったら、さすがモンテーニュ、ちゃんと「痛棒」を用意しておいてくれました。第一巻第二五章「子供の教育について」の次の一節にしたたか打ちのめされました。モンテーニュとホラティウスに感謝申し上げます。
もしもわれわれが、いわば人生の領分を、その正当で、自然な範囲に制限することができるならば、現在おこなわれている学問の大部分が、われわれの役に立っていないことに気づくでしょう。いや、役に立っている学問のなかにさえ、いっそのこと、そのままうち捨てておけばいいような、あまり無用な広がりやら、深みがあることがわかるはずです。ですから、ソクラテスの教育法にしたがって、われわれの勉学という川の流れを、有用性の欠けるところでせき止めてしまったほうがいいのです。
ためらうことなく賢くなれ。始めるのだ。正しく生きることを延期する人間は、川の流れがやむのを待つ田舎者のようなもの。されど川は流れ、転変しつつ永遠に流れていくであろうから。(ホラティウス『書簡詩集』一のニの四〇-四三)