現代日本社会で話題となる「霊性」は、鈴木大拙のいう霊性とはほとんど何の関係もないと言っていいのかもしれない。
例えば、その複数の著作で現代社会における霊性の問題を取り上げている宗教学者の島薗進氏の『新宗教を問う ―近代日本人と救いの信仰』(ちくま新書、二〇二〇年)によると、一九七〇年代から精神世界に対する志向が広まり、「スピリチュアリティ」とか「霊性」といわれるもの、あるいは「癒しの思想」とされるものへと人々の関心が移っていったという。これらは現世肯定的であり、救いを求めるものではないと島薗氏は指摘する。
こうしたスピリチュアリティは、一九八〇年代以来、グリーフケアや死生学といった分野とも関わって関与者が増してきているという。これらの動きに関して、島薗氏は、「人間の苦悩や現世の限界に向き合い、それを超えた次元との関わりを重んじる文化の新たな形態とみることができる」と述べている。
同書によると、九〇年代に入ると、日本や東アジアの文化には「宗教」とは異なる「精神世界」的なものや「スピリチュアリティ」と元来親和性があると主張されることも多くなった。これらの傾向を示す運動や文化を、島薗氏は、「新霊性運動」「新霊性文化」として捉えようとしてきたという。
これらの運動や文化の中には、「新しい痛みのスピリチュアリティ」、スピリチュアルペインに力点がある動きもある。それはまた、痛みの共同性を重んじる動きでもあるという。
こうした傾向が二〇一一年の東日本大震災と福島原発災害、そして二〇二〇年以降の新型コロナウィルス感染症の流行によってさらに促進されているのは間違いないだろう。島薗氏が指摘するように、これらの災害が、「人間の力の限界を露わにし、現代文明の驕りをあらためて省みる機会となったようにも見える。」
しかし、それはまた「霊性」という言葉を巡ってのいかがわしい言説や運動、さらには商法が蔓延る機会にもなっているように私には見える。