大橋幸泰『潜伏キリシタン 江戸時代の禁教政策と民衆』(講談社学術文庫、2019年。原本、講談社、2014年)は、ここ数年、毎年「近代日本の歴史と社会」で取り上げるテキストである。
その序章「キリシタンを見る視座」には、少し意外なことに、「二十一世紀は輝いているか?」と題された節が冒頭に置かれている。
「筆者が小中学生だった一九七〇年代、二十一世紀は輝かしい未来であった。」という一文でそれは始まる。そして、少し先で著者はこう述べている。「一九七〇年代当時、二十一世紀がまぶしいくらい輝いて見えたというのは、決して誇張ではない。この言葉に代表されるように、現実の二十一世紀は筆者が子どもだったころのイメージとは大きな隔たりがある。ちょっとした違和感どころの話ではなく、そのころは思いもよらなかったくらい息苦しくなっている、というのが筆者の偽らざる実感である。」
その実感のよって来るところを、直近の出来事や状況のなかに探るのではなく、「もっと長期的な視野を持ち、どのような経過を経て現在に至ったかを知ったうえで、その息苦しさの原因を見極めたい。そうすれば、“いま”という時代はどのような時代であるのかを理解することができると同時に、このさきの未来を希望あるものとして展望するためには何が必要か、という見通しも立てることができる。」これが著者のキリシタン研究の根底にある動機である。
私は、本書から読み取れる著者の誠実さとその専門研究としての価値を疑うものではない。しかし、現在の状況はもっと深刻な仕方で危機が差し迫っているのではないかと思わざるを得ない。そう思わせる事象には日々事欠かない。
そうした事態の緊急性を前にして、近視眼的に騒ぎ立てるのではなく、十九世紀にまで遡り、マルクスのテキスト(特に未公刊の草稿類)を丹念に読み抜くことで、資本主義と徹底的に対峙しつつ、その対峙を可能にする環境思想をその中に読み取った画期的な研究である斎藤幸平氏の『大洪水の前に マルクスと惑星の物質代謝』(角川ソフィア文庫)が先月文庫版で刊行された。
原本は三年前に堀之内出版から刊行された。その基になっているのは、二〇一四年一二月にベルリン・フンボルト大学に提出された博士論文と二〇一七年に刊行された英語版であり、「その後に刊行された論文も加えて、日本の読者に合わせて全体の流れを整えるための加筆・修正を行った日本語オリジナル版である。」(「あとがき」より)
二〇一六年に刊行されたドイツ語版に基づいたフランス語訳は昨年、La nature contre le capital. L’écologie de Marx dans sa critique inachevée du capital というタイトルで Éditions Syllepse から刊行された。修士の演習と学部三年の授業では仏訳を推薦図書として紹介すると同時に、日本語版の「はじめに」の最後の二段落を日本語テキスト読解演習をかねて一緒に読んだ。日本語のレベルとして学部三年生ならこれくらいは自力で読めるようになってほしいと願うのはちょっと要求過剰かも知れないが、内容をとにかく伝えたかった。
残念なことに、「大洪水よ、我が亡き後に来たれ!」という態度は、グローバルな環境危機の時代において、ますます支配的になりつつある。将来のことなど気にかけずに浪費を続ける資本主義社会に生きるわれわれは大洪水がやってくることを知りながらも、一向にみずからの態度を改める気配がない。とりわけ、一%の富裕層は自分たちだけは生き残るための対策に向けて資金を蓄えているし、技術開発にも余念がない。
だが、これは単なる個人のモラルに還元できる問題ではなく、むしろ、社会構造的問題である。それゆえ、世界規模の物質代謝の亀裂を修復しようとするなら、その試みは資本の価値増殖の論理と抵触せずにはいない。いまや、「大洪水」という破局がすべてを変えてしまうのを防ごうとするあらゆる取り組みが資本主義との対峙なしに実現されないことは明らかである。つまり、大洪水がやってくる前に「私たちはすべてを変えなくてはならない」(Klein, 2014)。だからこそ、資本主義批判と環境批判を融合し、持続可能なポストキャピタリズムを構想したマルクスは不可欠な理論的参照軸として二一世紀に復権しようとしているのだ。
この一節の中の「私たちはすべてを変えなくてはならない」という一文は、Naomi Klein, This Changes Everything. Capitalism vs. The Climate, New York. (『これがすべてを変える:資本主義 vs. 気候変動』(上・下)岩波書店、2017年)からの引用である。