内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

滞仏丸二十二年

2018-09-10 11:33:49 | 雑感

 このブログを2013年6月2日に開始してから、毎年9月10日にフランスでの生活を振り返ることが個人的な年間恒例「行事」の一つになっている。
 1996年9月10日に渡仏してから今日が二十二回目の「記念日」である。当初は、こんなに長く居るつもりは毛頭なかった。というか、翌年自分がどこにいるのかさえ想像できないような体たらくであった。それが思いもよらぬ様々なきっかけで、というか、奇しきめぐり合わせで、とうとうフランスで還暦を迎えるに至った。感慨深い、というよりも、茫々と過ぎてしまった時間の長さにただ呆然としている。
 想定外の事情が突発的に発生しないかぎり、少なくともこれから定年までの九年間もフランスに居ることになるだろう。積極的にそうすることを選ぶというよりも、他の選択肢は非常に想像しにくいから、高い確率でそういうことになるだろうというのだけのことである。
 今日が大学の新学年度の授業開始日である。私自身は火曜から金曜まで授業がある。火曜は修士二年の作文技術の演習(二時間)が隔週、水曜日は修士一年のテキスト講読と口頭発表を組み合わせた演習(二時間)、木曜日は学部三年生の古典文学の講義(二時間)、金曜日は同じく学部三年生の日本現代社会史(二時間)と日本文化についての日本語での講義(一時間)。今年から新カリキュラムに切り替わり、昨年までの講義資料・ノートをそのまま使える古典文学の講義を除いて、すべて新たに毎回零から準備しなくてはならないから、毎週そのために相当な時間がかかるだろう。これは、しかし、教員たるものの主たる職業的義務であり、少しも嫌ではない。
 学科長としての雑務もひっきりなしにある。今日もこれから大学に出向く。しばらくは月から金まで毎日出勤であろう。普通に会社勤めをされている方たちには当たり前のことだが、大学教員にとって、これは過重な負担である。しかも、大学に行っても研究室などないのである。もちろん学科長室など夢のまた夢である。五人の専任教員に対して机が四つあるだけの狭い教員室が一つあるだけである。つまり、そこでは講義の準備などできたものではないのである。
 こんなぱっとしない灰色の現実を従容と受け入れつつ、毎朝プールで泳ぎ(今朝も泳いだ)、毎日このブログの記事を書き、大学では課された任務を粛々とこなし、その合間を縫って自宅で講義と研究発表の準備もするという滞仏二十三年目が今日から始まる。












障子越しの光と影の美しさ ― 小泉八雲『心』から

2018-09-09 23:59:59 | 読游摘録

 日本への帰化手続きが済み、ラフカディオ・ハーンが日本名「小泉八雲」を名乗るようになったのは、来日から六年後の一八九六年二月のことである。この年、ハーンは四十六歳になる。同年三月、随筆・評論集 Kokoro(『心』)がボストンのホートン・ミフリン社及びロンドンのリバーサイド・プレス社から同時出版される。
 本書に収められた十五篇の一つに « From a traveling diary »(「旅の日記から」)と題された日記式の随想がある。長さの異なる七節からなっている。その第二節は、「四月十六日 京都にて」と前書きされている。一八九五年の京都滞在の折に綴られた文章である。その冒頭の障子越しの光と影の描写が美しい。

 The wooden shutters before my little room in the hotel are pushed away; and the morning sun immediately paints upon my shoji, across squares of gold light, the perfect sharp shadow of a little peach-tree. No mortal artist — not even a Japanese — could surpass that silhouette! Limned in dark blue against the yellow glow, the marvelous image even shows stronger or fainter tones according to the varying distance of the unseen branches outside. it sets me thinking about the possible influence on Japanese art of the use of paper for house-lighting purposes.
 By night a Japanese house with only its shoji closed looks like a great paper-sided lantern, — a magic-lantern making moving shadows within, instead of without itself. By day the shadows on the shoji are from outside only; but they may be very wonderful at the first rising of the sun, if his beams are leveled, as in this instance, across a space of quaint garden.

 宿の私の部屋の雨戸は繰られ、さっと差し込む朝日が、金色に光る四角に区切られた障子の上に、小さな桃の木の影をくっきりと完璧に描き出す。人間の芸術家には、たとえ日本人といえども、この影絵を凌ぐことはできまい。黄色に輝く地に浮かび上がる紺の素晴らしい画像は、ここからは見えない外の枝の遠近によって色の濃淡さえ変えてみせている。私は、家の採光に紙を用いたことが日本の芸術に与えた影響について考えさせられる。
 夜、障子を閉めただけの日本の家は、紙を張った大きな行灯のように見える。外にではなく内側に動きまわる影をうつす幻灯機だ。日中、障子の影は外からだけだが、日が出たばかりの時、ちょうど今のように、趣のある庭越しに光線が真横からさしていれば、影は大変見事なものとなるだろう。(河島弘美訳、平川祐弘編『日本の心』講談社学術文庫、101‐102頁)

 生まれたときから青年期までを過ごした今はもうない旧宅の離れは純日本家屋だった。庭に面した部屋は、縁側、雨戸そして障子の引き戸で庭と隔てられていた。雪あかりの障子越しのやや黄色みを帯びた乳白色の柔らかい光のことなど、覚えている。懐古趣味に浸る気はないのだが、こうした日本家屋の美しさが失われてしまうのはやはりまことに残念に思う。












「狂言綺語」小考(三)―『沙石集』における愚人教化のストラテジー、あるいは縁としての「あだなる戯れ」について

2018-09-08 13:30:16 | 読游摘録

 「狂言綺語のあだなる戯れ」を仏讃仰への機縁として「愚かなる人」たちを教化しようという「戦略」は、無住の『沙石集』において積極的に展開される(無住の『聖財集』における始覚思想に見られるプラグマティズムについては、拙ブログ 2018年5月1日の記事 で取り上げた)。
 第一「神儀」冒頭の一節は『沙石集』全体の序文である。その中で「狂言綺語」という語が使われている。

 それ麁言軟語みな第一義に帰し、治生産業しかしながら、実相にそむかず。然れば狂言綺語のあだなる戯を縁として、仏乗の妙なる道を知らしめ、世間浅近の賤きことを譬として、勝義の深き理に入れしめむと思ふ。(『新編 日本古典文学全集』小学館、二〇〇一年、一九頁)

 そもそも、粗野なものであれ穏和なものであれ、言葉というものは皆、仏法という最上の真理に帰一し、この世の事はすべて真理に矛盾しない。したがって、私は虚偽虚飾の言葉の空しい戯れを縁として、人々に仏道の精妙な道理を知らしめ、世間の卑近な事柄を喩えとして、仏道のすぐれた深遠な道理に導き入れようと思う。(同頁)

 Langage grossier et mots élégants reviennent tous deux au principe primordial ; et travailler aux préoccupations quotidiennes de la vie n’est nullement en contradition avec l’ultime réalité. C’est pourquoi je pense mener les êtres sur la Voie merveilleuse du bouddhisme, en me servant de plaisanteries futiles en ‘mots fous’ et ‘langage raffiné’ et leur enseigner le principe profond de la vérité absolue en prenant pour exemple les trivialités des choses banales de ce bas monde (Collection de sable et de pierres, traduit du japonais par Harmut O. Rotermund, Gallimard, « Connaissance de l’Orient », 1979, p. 41).

 この一節について、ドナルド・キーンは『日本文学史 古代・中世篇四』(土屋政雄訳、中公文庫、二〇一三年)で、「ルクレチウスの譬えを借りるなら、ニガヨモギを入れたカップの縁に塗る蜂蜜が「狂言綺語」といえよう」(二八二頁)と注している。
 序文のもう少し先の方で、無住は、「それ道に入る方便、一つにあらず。悟りを開く因縁、これ多し」と主張している。一見荒唐無稽で、仏教の教えとは何の関係もなさそうな話の中にも、そのような因縁はあるのだ、という確信が、無住に実に多様な万華鏡の如く色とりどりな説話を生き生きとした筆致で執筆させている。
 「「世間浅近ノ賤キ事」や「徒ラナル興言」をも教理の枠組の中でとらえ、「讃仏乗ノ縁」にしようという無際限なまでの現実の受容が、多くの笑話を仏教説話集の枠を破って収録させることになり」(同「解説」)、そのことが説話集としての『沙石集』の文学的価値を高めている。
 『沙石集』の編集方針に見られる無住のこの現実受容的態度は、鎌倉新仏教の創始者たちのそれと対照的である。「無住は偏執を否定するという側面から専修念仏に強く反対し、諸仏往生を説く」(『新編 日本古典文学全集』小学館、小島孝之による「解説」。六三〇頁)。中世仏教史を鎌倉新仏教を中心に据えてみる仏教史観において、無住の思想的態度は不当に軽視されてきたと言わなくてはならないだろう。他方、無住の始覚思想は、当時盛んだっった本覚思想にも対立する。
 『沙石集』は、説話集としてその文学的価値においてばかりでなく、始覚思想に裏づけられた世界観の表現としてその思想的価値においても評価されるべきだろう。












「狂言綺語」小考(二)― 『平家物語』における間接的メタノイア、あるいは「讃仏乗の因」について

2018-09-07 00:04:16 | 読游摘録

 『平家物語』には、「狂言綺語」の語が二度見える。巻第三の「大臣流罪」の段と巻第九「敦盛最期」の段である。
 前者では、太政大臣であり、また当代随一の音楽家であった藤原師長が、昨日の記事で引いた白氏文集の一節を朗詠し、秘曲を琵琶で弾ずると、「神明感応に堪えずして、宝殿大に震動す」とある。清盛の企みによる配流の身の上にもかかわらず、平家の悪行がなければ、このような瑞相を恵まれることもなかったと、師長は感涙を流す。「政界の中央から追われても、その風雅な配所での生活をもって、逆に、精神的な価値観において、追放を企んだ権力者の上位にたった、隠遁的文人の理想を託した挿話である」(杉本圭三郎『新版 平家物語 全訳注』講談社学術文庫、二〇一七年)。
 後者は、熊谷直実が十七歳の敦盛を泣く泣く討ち頸をかいた後、敦盛の鎧直垂を切り取って、それで頸を包もうとしたとき、錦の袋に入った笛に気づき、その「小枝」という名の笛が直実の発心をうながしたといい、「狂言綺語のことわりと言ひながら、遂に讃仏乗の因となるこそ哀なれ」と結ばれる。
 「敦盛最期」においては、管弦の業そのものがそれを行う者その人の発心の機縁となったわけではない。管弦を聴いた者が発心したのでもない。戦場にも笛を携える風雅を心得た美麗なる十七歳の若武者敦盛の凛々しくも儚い命の形見としての笛が、その少年を討った直実の心に深い哀れの情を生ぜしめ、その発心の機縁となった。したがって、ここでの「狂言綺語」と発心との関係は直接的な因果関係ではない。直実の身に起こったのは、二重に間接的な「因」に感応した心にもたらされた「メタノイア」である。












「狂言綺語」小考(一)― 『梁塵秘抄口伝集』のアクロバティックなレトリック、あるいは今様往生論について

2018-09-06 00:19:40 | 読游摘録

 「狂言綺語」という言葉は、『倭漢朗詠集』所引白氏文集中の「願以今生世俗文字之業狂言綺語之誤、翻為当来世世讃仏乗之因転法輪之縁」(願はくは今生世俗の文字の業、狂言綺語の誤ちを以て、転じて当来世世讃仏乗の因、転法輪の縁と為さん[この世で仏道に関係のない詩歌や文章にふけっていた罪を、来世において仏を讃嘆しそのありがたさを説き述べる機縁としたい])に見え、道理に合わない言葉と、巧みに飾った言葉のことである。特に、仏教・儒教の立場から、詩歌・小説や歌舞音曲を指す。この意味での「狂言綺語」は、仏の言葉である「実語」の反意語である。
 しかし、『梁塵秘抄』には、「狂言綺語の誤ちは 仏を讃むるを種として あらき言葉もいかなるも 第一義とかにぞ帰るなる」(法文歌・雑法文歌・二二二)とあり、これは、「でたらめの言葉、飾り立てた言葉で作った文学の営みは間違った行いではあるが、それも仏を讃嘆する機縁となし得る。荒々しい言葉もどんな言葉も、すべては仏法の絶対的真実に帰するということだよ」(植木朝子訳『梁塵秘抄』、ちくま学芸文庫、二〇一四年)ということであり、狂言綺語もまたこの世において仏道に参入する契機となりうると、積極的な価値が付与される。
 『梁塵秘抄口伝集』巻第十において、後白河院は次のようなアクロバティックな今様往生論を展開することで、民間に流布している俗謡をさらに積極的に擁護する。

 この今様を嗜み習ひて、秘蔵の心ふかし。さだめて輪廻業たらむか。
 我が身、五十余年を過ごし、夢のごとし幻のごとし。すでに半ばは過ぎにたり。今はよろづを抛げ棄てて、往生極楽を望まむと思ふ。たとひまた、今様を歌ふとも、などか蓮台の迎へに与からざらむ。
 その故は、遊女のたぐひ、舟に乗りて波の上に浮び、流れに棹をさし、着物を飾り、色を好みて、人の愛念を好み、歌を歌ひても、よく聞かれんと思ふにより、外に他念なくて、罪に沈みて菩提の岸にいたらむことを知らず。それだに、一念の心おこしつれば往生しにけり。まして我らは、とこそおぼゆれ。法文の歌、聖教の文に離れたることなし。
 法華経八巻が軸々、光を放ち放ち、二十八品の一々の文字、金色の仏にまします。世俗文字の業、翻して讃仏乗の因、などか転法輪とならざらむ。(馬場光子全訳注『梁塵秘抄口伝集』講談社学術文庫、二〇一〇年、電子書版二〇一七年)

 今様への執着が輪廻業にならないかと危惧しつつ、極楽往生は願っている。しかし、今様を捨てるつもりはない。なぜか。浮かれ遊んで往生の妨げになるようなことを散々した遊女たちでさえ、今様によって一心に仏に帰依する心を発すれば往生を遂げることができたからだ。まして私の場合は往生しないはずがない。法文の歌は仏典の教えの文言に離れたことはない。世俗文字の業は昇華して仏法を讃歎する契機となるのであるから、どうして今様が迷いを打破して往生へと導く転法輪とならないことがあろうか。
 今様に全心を捧げた後白河院にしてはじめて到達できた今様往生論と言うべきであろうか。












「涯しのない真理の大海のなかに身を投げ入れて、その一滴を味わう」― 山田晶の言葉③

2018-09-05 05:19:55 | 哲学

 昭和四十年に京大に転任した機会に、山田晶は『神学大全』ラテン語原文で読む演習を毎週二つ行うことにした。しかし、それはなかなか進まない。

 この調子でゆくと、《スンマ》全巻を読了するのに、二百年はかかりそうである。ということは、つまり、私たちの代には終わらないということである。しかし私はそれでよいと思っている。明治以来、日本の学者たちは、あまりに西洋の思想を早くとりこもうとあせりすぎたようだ。早く追いつこう、追い抜こうと、息切らしているようだ。何故そんなにあせるのか。学問の面白さは、涯しのない真理の大海のなかに身を投げ入れて、その一滴を味わうところにはじめて生じてくるのではなかろうか。(「聖トマス・アクィナスと『神学大全』」、『世界の名著 トマス・アクィナス』、14-15頁)

 この箇所を読むと、今から三十年ほど前、院生のときに参加したアリストテレスの『デ・アニマ』の演習のことを思い出す。ギリシア語原文を英仏独の多数の注釈書を参照しながら読んでいくのだが、一語の解釈を巡って参加者の間で議論が延々と続き、読解は遅々として進まない。三時間の演習でたった二行しか読めなかったこともあった。
 しかし、それでがっかりしたり、苛立ったり、先を急ぎたがったりする者はひとりもいなかった。むしろ、そこまで徹底して議論を尽くせたことの満足感が参加者全員に共有されていた。
 そのようないつ終わるとも知れぬ共同読解作業から私は実に多くのことを学んだ。そこで初めて哲学することの醍醐味を味わったと言ってもよい。その演習を通じて学んだ「遅読」の方法は、今もなお、私にとってテキスト読解の基本である。












哲学はどこに現成するのか ― 山田晶の言葉②

2018-09-04 01:01:41 | 哲学

 山田晶の文章は、どこまでも明晰判明であろうとする意志に貫かれているが、それは暗く見透しがたい冥闇をその哲学的思考から排除しようとしてのことではない。

 私は世界のなかに、何か暗い見透しがたいものが存在することを実感していた。しかし暗い世界をそのまま肯定して、暗さのなかにどっぷりつかっている神秘主義は、なにか怠惰で、不潔なもののように思われた。これに対し、明るい世界だけに安住している合理主義は、何か軽佻で、これまた別の意味で怠惰であるように思われた。明晰判明な知をしっかりと把んで、それをともしびとしながら、暗い世界をいくらかでもあきらかにしようと、汗を流しながら努力していく、その過程のうちに「哲学」は現成するのであると信じていた。(「聖トマス・アクィナスと『神学大全』」、『世界の名著 トマス・アクィナス』、10-11頁)

 暗さをそのまま肯定し暗さの中に浸りきっていることが神秘主義だとは私は思わない。だから、それだけを理由に神秘主義を嫌忌する山田には共感できない。しかし、他方、明るい世界だけに安住している合理主義の怠惰を突くところには共感を覚える。
 上田閑照は、『上田閑照集 第七巻 マイスター・エックハルト』(岩波書店、2001年)の「後語 解釈の葛藤の中で」で、西谷啓治『神と絶対無』と双璧をなす銀山鉄壁として、山田晶の巨大なトマス研究を挙げ、「山田はそのトマス研究に立って言う、何故に「有の立場」より「無の立場」の方が深いのか、その場合「深い」とは何を意味するか、もう一度批判の眼をもって検討する必要がある、と」(362頁)と述べ、山田のトマス研究が自身のエックハルト研究にとって「容易ならざる課題」を突きつけるものであることを認めると同時に、「深い励まし」を山田の研究から受け取っている。
 ありもしない虚妄の深みを思わせぶりにちらつかせるような徒に難解なだけの言説は当今もう流行らない。しかし、知的努力なしにわかるように説明されていないものをそれだけの理由で拒否することも精神の怠惰以外の何物でもないだろう。
 あたうかぎりの明晰判明さを探照灯として昏き世をいくらかでも照らす努力を生涯にわたって弛みなく続けた山田晶は、その不朽の業績によって哲学徒がつねにそうあるべき姿勢を身をもって示したと言えるだろう。












未来なき「無気味な静けさ」の中で、この一瞬の勉強に全生命をかける ― 山田晶の言葉①

2018-09-03 01:53:18 | 哲学

 山田晶は大正十一年(1922年)生まれ。昭和十七年(1942年)に京都帝国大学文学部哲学科に入学。翌昭和十八年十二月、学徒出陣で海軍に入隊する。その翌年昭和十九年、戦時特例により卒業。「私は、不思議に命ながらえて故郷に戻ってきたが、出征中に戦時特例によって、論文も出さずに大学を卒業していた。私は、パウロのことばを真似るならば、「月足らずに生まれた学士であって、学士の名に値しない者」であった」(「聖トマス・アクィナスと『神学大全』」、『世界の名著 トマス・アクィナス』、9頁)。京大入学から出征までの短い学生生活を振り返って、山田は次のように当時を回顧している。

 私は先に、当時の京大は静かであったといった。しかしその静けさは、平和の静けさではなく無為の静けさでもなかった。それは無気味な静けさだった。海や陸では死闘がくりひろげられ、多くの人々が血を流していた。自分たちは大学生の特典で兵役を延期されていたが、いつ兵役にとられるかわからなかった。
 そういう状態で勉強できるこの時間は、まことに貴重だった。未来に希望がなかったから、いまこの一瞬の勉強に、全生命をかけた。私の心はまさに「暗い中世」だったのだ。暗さのなかに、一条の光明をもとめていたのだ。しかしこの現実から逃げようとは思わなかった。許されるあいだ勉強しよう。征く日がきたらいさぎよく征こうと思っていた。その日は思いがけず早く来たが、残念とは思わなかった。私はそれまでつづけてきた研究ノートに「生きてかえれたらまたつづけよう」と書いた。何の未練もなかった。(「教父アウグスティヌスと『告白』」、『世界の名著 アウグスティヌス』、9頁)

 戦時にあってのこのような潔さを美化するつもりは毛頭ないが、勉強しようと思えばいくらでもできる平和で「明るい」時代に生きている私たちは、かえってこの一瞬の価値がわからなくなってしまっているのではないかと自問せざるをえない。偽りの明るさの中で人の世の現実の本来的な暗さが見えなくなり、一条の光明をもとめることもなくして、いったいどこへ行こうとしているのだろうか。













中世の森の中の仄暗い学問の道を歩む ― 山田晶の二つの解説文

2018-09-02 03:22:05 | 読游摘録

 昨日の記事で紹介した『世界の名著 トマス・アクィナス』の巻頭には、その責任編集者・訳者である山田晶による七十頁ほどの解説文「聖トマス・アクィナスと『神学大全』」が置かれている。その導入節「トマス・アクィナスと私」は、同じく『世界の名著 アウグスティヌス』(1968年)の山田晶による解説文「教父アウグスティヌスと『告白』」のやはり導入節である「アウグスティヌスと私」とともに、私にとって、何度読んでも感動する文章である。
 どちらの文章も最初に読んだのは今から数十年前、最初の学部生の頃だっだ。どこまでも真摯に尽きることなき情熱と覚悟をもって、中世哲学研究に―さらにはもっと広く学問に―身を捧げるその生き方が虚飾を排した謙虚な文体で綴られたこれら二つの文章を読んで、学問の厳密さとそれが強いる永続的な忍耐と研鑽、それらを引き受けた者のみに恵まれる学問することの喜びが文面からひしひしと感じられ、まるで及びもつかないにせよ、自分もまた学問の道に進みたいという願望がそのとき私の中にも点火されたことを覚えている。
 そのときから数十年も経っているのに、いまだなんらの学問的業績もない自分がほんとうに恥ずかしい。大聖堂の建設のために一人の無名の石工が日々営々と働き続けるように学問に勤しむことに憧れながら、その大聖堂の周りを風来坊のようにただほっつき歩いているうちに茫々と時は虚しく過ぎてしまった。いっそのことほんとうに無に等しい存在ならばまだしも、わずかばかりの欠片のような有にしがみつき、執着し、振り回され、そのために失ってしまったものの大きさに、今、心が押しひしがれようとしている。
 今一度、学に志した初心に立ち返るよすがとして、明日からの三日間、山田晶の二つの解説文から特に心に残っている箇所を一箇所ずつ引用して、それに若干の感想を付す。














同時代人としてのトマス・アクィナスと道元 ― 山田晶訳『世界の名著〈続5〉 トマス・アクィナス』の付録から

2018-09-01 01:36:32 | 読游摘録

 その精緻なアウグスティヌス研究と膨大・緻密・澄明なトマス・アクィナス研究とによって日本の中世哲学研究に比類なき大聖堂のごとき業績を残された山田晶の編集・訳による『世界の名著〈続5〉 トマス・アクィナス』(中央公論社、1975年)をこの夏の一時帰国の際にやっと買い戻した。
 二十二年前、渡仏する前に大方の蔵書を売り払ったときにこの本も売ってしまい、後で大変後悔した。その後、帰国の度に神保町の古本屋街で探したが、同シリーズの他の諸巻は叩き売りに近い安値で店頭に並んでいるのに、この巻だけは見つからなかった。それが今回、その同じ神保町で、状態のいい古本をたったの二百円で購入することができた。
 本書は、トマス・アクィナス『神学大全』第一部の抄訳だが、その厳密な訳と懇切丁寧詳細な訳注は今日の専門家たちにとってもなお貴重なものであるという。訳と訳注は、中公バックス(1980年)として再刊され、2014年には新書版の中公クラシックスとしてニ分冊で再刊され、簡単に入手できるようになった。だから、世界の名著版が古本市場に出回るようになり、しかもこんな安値がつくようになったわけだ。
 では、なぜ初版である世界の名著版にこだわったかというと、それは初版だからでもなく、安かったからでもなく、その付録の月報のためである。このわずか12頁の付録には、昭和五十年五月十二日に行われた山田晶と上山春平の対談が掲載されていて、その中に「トマスと道元」と題された節があり、そこで上山の質問に答える形で山田はトマスと道元の類似点を列挙している。その山田の答えを全文引用する。

 道元は一二〇〇年(正治二年)、トマスは、一二二五年に生まれていますから、トマスのほうが二十五年後ですが、二人はだいたい時を同じくして東西に生きていたわけです。トマスは、領主の子供で、道元は公家の出身です。トマスは六歳で、モンテ・カシノの修道院にあずけられました。トマスの両親はこの秀才をモンテ・カシノにあずけて、のちには大修道院の院長にするつもりだったかもしれません。道元も十三歳で出家して、叡山に登っています。叡山はちょうどその当時の西洋のベネディクト会に当たります。それは学問と修行の中心地であると同時に、大きな現実的社会的勢力でもあったのです。もしも道元が叡山にとどまったならば、その門地から言っても才能から言っても、天台座主になったかもしれません。事実、『愚管抄』の著者として知られる天台座主の慈鎮は、道元のごく近い親戚なのです。
 しかし道元は叡山にあきたらず山を下り、栄西や明全の禅宗に身を投じます。同じようにトマスも、ベネディクト会にあきたらず、ドミニコ会に身を投じます。ドミニコ会もフランシスコ会も、当時は創立されて間もないころで、活気に満ちあふれていたと思われます。トマスはアルベルトゥス・マグヌスという当時の最大の学者を師とします。トマスはイタリア人、アルベルトゥスはドイツ人です。同様に道元は、天童如浄を正師とします。如浄はもちろん中国の人です。このように民族や国籍の別を超えて師と弟子とが深く結ばれる点も似ています。
 両人ともに、比較的若く世を去っている点も似ています。トマスは四十九歳、道元は五十三歳です。臨終のさまも、よく似ています。道元は死期の近づいたのを感じると、『正法眼蔵』の最後の巻「八大人覚」を書いて衆に示します。そして長年住みなれた越前の永平寺を去って京都にもどり、そこで死ぬのです。「法華経」を誦しながら死んだと言われます。トマスも、晩年にイタリアにもどります。そして死期が近づいたとき、『雅歌』の註解をし、ベネディクト会の修道院で死ぬのです。どちらも詩人であった点もよく似ています。

 もう何十年も前に最初に読んだときに強く印象づけられた一節である。トマスと道元との間に思想内容において類似点があるわけではない。しかし、西洋と東洋の中世がそれぞれに十三世紀に生んだ最も偉大な思想家であること、どちらも伝統的教学に習熟した後にそれを抛ち、それを超え、革新的な思想体系を建立したこと、それが今日もなお汲み尽くせぬ思想の源泉であることなど、単なる偶然の一致と言って済ませることのできない歴史的必然性のようなものを両者の類似点の中に私は感じないではいられない。