内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

カイロスとクロノス(6)― 捉えられたクロノスとしてのカイロス

2018-09-20 21:08:35 | 哲学

 アガンベンの『残りの時』「第四日目」の「カイロスとクロノス」と題された節に今日はほんの一瞥を与えるだけの時間しかない。
 ヒポクラテスを引用しながら、アガンベンは、一般に強調されることが多いカイロスとクロノスとの対立や異質性ではなく、むしろ両者の不可分な関係性を強調する。
 カイロスは、適切に捉えられた時機(occasion)であるとしても、カイロスにとってクロノスとは別の何か特別な時間があるわけではない。私たちがカイロスを捉えたときに捉えてるのはクロノスと別の時間ではない。ただ、それは縮約されたクロノスなのだ。
 救世主の到来による癒やしは、たしかにカイロスにおいて起こる。しかし、このカイロスは、「捉えられたクロノス」にほかならない。時機の環のうちに嵌入された真珠は、クロノスの小片、まだ残っている僅かな時間にほかならない。
 だから、救世主が到来する世界はこの世とは別の世界のことではなく、この世俗世界のことにほかならない。ただ、そこには、ごく僅かな移動、ほんの僅かな差異がある。この小さな違いとは、私が時系列に沿った時間に対して捉えた私の「ずれ」のことだ。これが決定的に重要なのだ。












カイロスとクロノス(5)― ヒポクラテスにおけるカイロスの定義について③「医術、それはカイロスの業」

2018-09-19 08:58:46 | 哲学

 『ヒポクラテス全集』 Corpus Hippocraticum におけるカイロスは、ある処置のためにその患者にとって適切な時機という意味のほかに、そのような良いタイミングで施された処置・療法という意味で使われることもある(『古い医術について』)。
 そして、それら両方を同時に意味する場合、つまり、「時宜にかなった適切な処置・療法」を意味することもある(『古い医術について』)。
 適切な時機としてのカイロスは、単にある病気の進行との関係だけで規定されるうるものではない。それは、季節・風土・自然環境・天体の運行、さらには民俗的与件との関係において規定されなくてはならない(『空気、水、場所について』)。
 医術とは、つまり、カイロスを予見し、捉え、その時そこで患者に対して病気治療のために適切な処置をほどこすことである。この意味で、医術とは、まさにカイロスの業であると言うことができる。












カイロスとクロノス(4)― ヒポクラテスにおけるカイロスの定義について②「人生は短く、技術は長く、カイロスは逃れやすい」

2018-09-18 09:01:34 | 哲学

 手元には、ヒポクラテス医学論集の仏訳が二つある。De l’art médical (Le Livre de Poche, « Bibliothèque classique », 1994) と L’art de la médecine (GF Flammarion, 1999) である。後者の索引に « OCCASION (kairos) » が項目として採用されており、ヒポクラテスがカイロスあるいはその派生形を使っている箇所が五つそこに挙げてある。これらの箇所それぞれに懇切丁寧な後注が付されており、それが大いに理解の助けになるのもありがたい。それらの箇所を手がかりに、ヒポクラテスにおけるカイロスの意味を押さえていこう。
 まず、ラテン語の諺として人口に膾炙している « Vita brevis, ars longa » の出典であるヒポクラテス『箴言』の最初の断章の中に出てくるカイロスの意味を見てみよう。

ὁ βίος βραχὺς, ἡ δὲ τέχνη μακρὴ, ὁ δὲ καιρὸς ὀξὺς, ἡ δὲ πεῖρα σφαλερὴ, ἡ δὲ κρίσις χαλεπή. δεῖ δὲ οὐ μόνον ἑωυτὸν παρέχειν τὰ δέοντα ποιεῦντα, ἀλλὰ καὶ τὸν νοσέοντα, καὶ τοὺς παρεόντας, καὶ τὰ ἔξωθεν.

La vie est courte, l’art est long, l’occasion fugitive, l’expérience trompeuse, le jugement difficile. Or il faut non seulement se montrer soi-même accomplissant son devoir, mais aussi faire que le malade, les assistants et les éléments éxtérieurs accomplissent le leur (L’art de la médecine, op. cit., p. 210).

人生は短く、技術は長く、時機は逃れやすく、経験は誤りに導きやすく、判断は難しい。ところが、(医者は)ただ自分の義務を果たす者でなくてはならないばかりでなく、病人・アシスタント(看護師および付添い)・その他の外部のものたちもそれぞれそのなすべきことをなすように事を図らなくてはならない。(文意を汲んだつもりの拙訳)

 見ての通り、引用した仏訳は、この kairos の訳として « occasion » を採用し、この語に次のような後注を付している。

Contrairement à l’écriture ou à la lecture, dont le savoir est acquis une fois pour toutes, la médecine est définie comme un art dépendant de l’occasion, du kairos, le moment décisif où il faut agir, qui varie selon chaque malade et dure si peu que le médecin risque à tout moment de tomber dans l’akairiê, le traitement à contretemps (op. cit., p. 319).

 読み書きのように一度身につけてしまえばその後はいつでも運用できる能力とは異なり、医術は、時機つまりカイロスに依存した技術として定義されている。このカイロスとは、ある医療行為をまさにその時に実行すべき決定的な時機のことである。ところが、このカイロスは、病人によって異なり、瞬く間に過ぎ去ってしまうので、医療者はいつもアカイリエー(akairiê)つまり時機を失した処置に陥る危険に曝されている。
 つまり、ヒポクラテスにおいて、カイロスとは、それぞれの医療行為において、それが目指している望ましい結果がもたらされるために逃してはならない決定的な時機のことである。












カイロスとクロノス(3)― ヒポクラテスにおけるカイロスの定義について①

2018-09-17 23:59:59 | 哲学

 昨日の記事で予告したように、カイロスとクロノスとの区別と関係について考察するにあたって、小林敏明氏の『西田哲学を開く 〈永遠の今〉をめぐって』第6章「現在」を導きの糸としよう。
 その章でこの問題をめぐってまず参照されているのがジョルジュ・アガンベンの『残りの時』(Il tempo che resta. Un commento alla Lettra ai Romani, 2000)である。私の手元にあるのはその仏訳 Le temps qui reste. Un commentaire de l’Épitre aux Romains (Rivages poche, 2004 ; première édition 2000) である。本書は、アガンベンが1998年から1999年にかけて各所で行ったロマ書詳解セミナーが基になっており、章立ても「第一日」から「第六日」と演習の雰囲気を残すような仕方で編集されている。
 その「第四日」に「カイロスとクロノス」という節がある。小林氏も主にこの節を参照しているのだが、その参照されている箇所を直接見る前に、そもそもアガンベンが本節でカイロスとクロノスをどう定義しようとしているか、アガンベンの論述に即して見ておこう。
 アガンベンは、カイロスとクロノスとが互いに質的に異なるという一般的規定を承認した上で、しかし、ここでの関心は、両者の対立よりもむしろその関係にあるという。そこで、「カイロスをもつとき、私たちは何をもっていることになるのか」と問う。そして、カイロスについて自分が知る最も美しい定義として、ヒポクラテスのそれを引用する。
 その引用箇所は、仏訳からできるだけ忠実に訳せば、「クロノスはその中にカイロスがあるところのものであるが、カイロスはその中にほとんどクロノスがないところものである」となる。ただ、アガンベンは引用文献を示しておらず、私の手元にあるヒポクラテス医学論集の二つの仏訳の中で引用箇所を特定することはできなかったので、この訳が適切かどうか自信がない。
 差し当たりの理解として、クロノスという時間の流れの中にカイロスという機会は複数含まれているが、それぞれのカイロスは瞬間のようなもので、クロノスの中で長く持続することはない、としておこう。
 ここでアガンベンのテクストから一旦離れ、ヒポクラテスにおけるクロノスの意味をもう少ししっかりと捉えておこう。そのために、明日の記事からニ回に渡って、ヒポクラテス文書の中でクロノスあるいはその派生形が出てくる他の箇所を見ていくことにする。












カイロスとクロノス(2)― パウロ書簡に見られる両者の区別と関係

2018-09-16 18:52:37 | 哲学

 『新約聖書』「ガラテアの信徒への手紙」第四章第四節は、新共同訳では、「しかし、時が満ちると、神は、その御子を女から、しかも律法の下に生まれた者としてお遣わしになりました」、岩波文庫版文語訳では、「然れど時満つるに及びては、神その御子を遣し、これを女より生まれしめ、律法の下に生れしめ給へり」となっている。エルサレム版仏訳は、« Mais quand vint la plénitude du temps, Dieu envoya son Fils, né d’une femme, né sujet de la Loi »、Nestle-Aland 版英訳は、« But when the time had fully come, God sent forth his Son, born of women, born under the low »、同じくラテン語版は、« at ubi venit plenitudo temporis, misit Deus Filium suum, factumu ex muliere, factum sub lege » となっている。そして肝心のギリシア語本文は、« ὅτε δὲ ἦλθεν τὸ πλήρωμα τοῦ χρόνου ἐξαπέστειλεν ὁ θεὸς τὸν υἱὸν αὐτοῦ γενόμενον ἐκ γυναικός γενόμενον ὑπὸ νόμον » である。ギリシア語本文の「クロノス χρόνος」は、新共同訳でも文語訳でも「時」と訳され、仏訳は « temps »、英訳は « time »、ラテン語は « tempus » となっている。
 ところが、同じく新約聖書の「エフェソの信徒への手紙」第一章第十節「こうして、時が満ちるに及んで、救いの業が完成され、あらゆるものが、頭であるキリストのもとに一つにまとめられます。天にあるものも地にあるものもキリストのもとに一つにまとめられるのです」と、ここにも「時が満ちる」という表現が出てくるのだが、ギリシア語本文は、« εἰς οἰκονομίαν τοῦ πληρώματος τῶν καιρῶν ἀνακεφαλαιώσασθαι τὰ πάντα ἐν τῷ Χριστῷ τὰ ἐπὶ τοῖς οὐρανοῖς καὶ τὰ ἐπὶ τῆς γῆς ἐν αὐτῷ » となっており、「時」と訳されているのは、「クロノス」ではなく、「カイロス καιρός」なのだ。この点については、英訳にも同じ問題があり、どちらにも « time » が訳語として使われている。
 ラテン語訳では、「クロノス」には、tempus の属格単数形 tomporis が使われているのに対して、「カイロス」には、属格複数形 tomporum が使われている。仏訳でも同様で、前者は単数、後者は複数になっている。どちらの場合も、ギリシア語本文で属格の単数形と複数形とがそれぞれクロノスとカイロスとで使い分けられているところまでは忠実に反映している。ただそれぞれに別の語を充ててはいない。
 これは単に文法や語彙の問題ではない。クロノスとカイロスとの区別と関係をどう考えるかは、神学的あるいは哲学的に決定的に重要な問題の一つなのである。
 実際、パウロ神学におけるこのクロノスとカイロスとの区別と関係という問題は、少なからぬ西欧の神学者や哲学者たちがこれまで論じてきている。それらの議論のうちからいくつかを取り上げ、それらの論点との交叉点に西田哲学の「開口部」を探そうとしている小林敏明氏の『西田哲学を開く 〈永遠の今〉をめぐって』(岩波現代文庫、2013年)第6章「現在」を導きとして、私たちもこの問題を考えてみよう。













カイロスとクロノス(1)― 超え包む時と流れ行く時間

2018-09-15 23:59:59 | 哲学

 新学年開始に合わせて辞書類などが一斉に刊行され書店の店頭に並ぶのはフランスでも毎年のことである。
 昨年五月に Honoré Champion 社から出版された Dictionnaire de l’autobiographie. Écritures de soi en langue française のコンパクト版がつい数日前に発売された。値段は前者の65€に対して28€とお安くなっていて、学生たちにはそれだけ購入しやすくなっているわけだが、その分活字も小さくなっており、眼の弱くなった老人にはかなり読むのが辛い。
 それはともかく、844頁の中によくぞまあここまでいろいろ盛り込んでくれたものだと感心するほどの内容の充実ぶりである。フランス語で書かれた自伝・日記・回想およびその他の自己記述に関して、本辞書の編集委員の一人である Philippe Lejeune の Pacte autobiographique が1975年に出版されて以来今日までの四十年余りの研究成果がこの辞書には凝縮されていて、総勢二百名を超える執筆協力者を動員して作成された諸項目は、研究の手引きとして重宝するばかりでなく、読み物としても大変興味深い。
 項目として、人名・作品名とともに事項名も少なからず並んでいて(Facebook と Famille とが隣り合わせになっている)、それらがそれぞれその事項に即しての研究領野の見取り図を描き出していて(大項目の場合は、数節に分けられている)、いろいろと考えるヒントを与えてくれる。
 例えば、« Temps »(時間)という大項目(執筆担当者は Michel Braud)は、導入節の二段落の後が五節に分かれている。その第二節が « Kairos et chronos » である。その内容を要約すれば以下の通りである。
 十八世紀後半以降、フランス語圏では、個人的な時間の書記形態は、二つの互いに競合する形態に分かれる。前者が回顧的な自伝によって代表され、後者が日々の記録としての日記によって代表される。前者がある時の一点から見て統合的に一つの意味をもった全体として自己によって生きられた時間を把握しようとするのに対して、後者はその都度その都度の記述をただ時間の流れに沿って並置していくだけで、全体に整合性を事後的に与えようとはしない。前者がカイロス(意味をもった時)、後者がクロノス(流れる時間)にそれぞれ対応する。
 この項目を一つの出発点として、カイロスとクロノスとの関係について、明日の記事から何回か哲学的に考察してみよう。












「健康で文化的な最低限度の生活」だけで人は生きていけるか

2018-09-14 22:30:37 | 雑感

 ちょっと疲れてしまいました。身体的にではなく、精神的に。それは、この週末何もする気になれないほどに。
 日本からこっちに戻って今日でちょうど三週間になりますが、その間、気持ちがまったく休まらずに今日まで来てしまいました。物理的には特に拘束時間が長かったというわけでもないのです。フルタイムで働いていて、しかも毎日サービス残業が当たり前の方たちからすれば、むしろ「楽でいいよねぇ~」って言われてしまうであろう程度の仕事量に過ぎません。いわゆる「健康で文化的な最低限度の生活」はちゃんと送れていますしね。
 とは言うものの、今週月曜日から新学年が始まって、雑務と講義の準備で気持ちにまったく余裕がなくなってしまい、帰国翌日から十九日間一日も休まずに通っていたプールも、昨日今日とニ日続けて休んでしまいました。それ自体はちっともたいしたことではありません。体調が悪いわけでもありません。ところが、時間的には行く余裕は十分にあったのに、行く気になれなかった。それほどに、気持ちの上で疲れてしまっていることに溜息が出てしまいます。なんか頑張る気になれない。でも、仕事は休めない。
 仕事をしていれば、こんなこと、全然珍しいことじゃありませんよね。それはわかっているんです。でも、毎日大学関係のメールを処理するだけでも、それはもううんざりするほどです。送ってくる方のせいではもちろんありません。それぞれに必要があるから送ってくるわけで、だからそれらにはできるだけ速く応えています。ただ、こんなことを来る日も来る日も続けていては、心身ともに疲弊するばかりです。
 そのせいでそれ以外のメールへの対応が疎かになり、不義理を重ねてしまっています。それらに対してもさっと返信できるだけの余力が今はありません。どうかお許しください。












大地を遍く照らす太陽の下、生きとし生けるものの歓喜や悲痛と共振するもの ― ラフカディオ・ハーン「盆踊り」の最終節から

2018-09-13 23:59:59 | 読游摘録

 ラフカディオ・ハーンの「盆踊り」という作品の最終節に、感動(emotion)についての短いがとても意味深い考察が示されている。
 盆踊りのときに聞いた村娘たちの合唱が己の裡に呼び起こした曰く言い難い感動はいったいどこから来るのかとハーンは自問する。それは、聞き慣れた西洋のメロディが呼び起こす感情(feelings)とは違う。それなら、過去の全世代から受け継がれてきた母国語のように、なじみのある感情(sensations)であり、言語化できる。しかし、西洋の歌とはまったく異なる節で自分には意味がわからない異言語で歌われた歌が呼び起こした感動(emotion)は、同じような仕方では言語化できない。

 And the emotion itself — what is it? I know not; yet I feel it to be something infinitely more old than I — something not of only one place or time, but vibrant to all common joy or pain of being, under the universal sun. Then I wonder if the secret does not lie in some untaught spontaneous harmony of that chant with Nature’s most ancient song, in some unconscious kinship to the music of solitudes — all trillings of summer life that blend to make the great sweet Cry of the Land.

 ハーンは、 « emotion » を « feelings » や « sensations » から区別している。後ニ者は、言語化可能であるか、あるいは、その発生の時と場所、そして原因も特定できる。ところが、前者はそうではない。何なのかわからない。しかし、それは、大地を遍く照らす太陽の下、生きとし生けるものの歓喜や悲痛と共振するものではないのか。
 村娘たちの素朴な合唱に言い知れぬ感動を覚えたのは、それが大自然のもっとも古い歌と誰に教わることもなく調和していたからではないのか。さびしい野辺の歌や、大地のこの上なく美しい叫びを生み出す夏虫たちの合唱と、知らず知らずのうちに血脈を通わせているからではないか。そこにこそ、あの歌が呼び起こした感動の秘密があるのではないか、そうハーンは自問する。












神秘的雰囲気を醸成・瀰漫させている諸要素の抽出としての風景描写 ―ラフカディオ・ハーン「杵築」の一文をめぐって

2018-09-12 23:59:59 | 読游摘録

 昨日の記事で取り上げた「杵築」と「東洋の第一日目」(« My First Day in the Orient »)とを今年度前期修士一年の演習のメインテキストとして選んだ。
 今日がその演習の初日だった。一通りラフカディオ・ハーンの人と作品について説明した後、昨日の記事と同じように、「杵築」の原文、仏訳、日本語訳二つを縦に並べてスクリーン上に投影して、原文と日本語訳との間で正確には対応しない語があることを指摘した。
 二組の不対応がある。一つは、原文では « land » なのに(仏訳では « pays »)、二つの日本語訳ではそろって「山並み」という語がそれに充てられている。もう一つは、原語は « flood » なのに(仏訳では « flots »)、二つの日本語訳では、それぞれ「湖面」「湖水」になっている。いずれの場合も、原語にはそのような意味はない。
 なぜ訳者たちはこれらの語を選択したのか。それは、彼らが実際の風景を見て知っており、それにふさわしいより「正確な」風景描写になるようにという「配慮」をしたからだろうと思われる。
 だが、この「配慮」はハーンの意図に反しているのではないだろうか。なぜなら、ここの描写は、神秘的な風景の全体を、陽の光によって包み込まれた、動かぬ陸地と水の流れというより抽象度の高い静と動との対比的構図として描き出そうとしているからである。実際に見た山並みや湖をどう描写するかが問題ではないからこそ、« land » と « flood » という語が選択されていると考えられる。とすれば、この文は、実際に見た風景の「忠実な」再現を目指しているのではなく、その風景に神秘的な雰囲気を醸成・瀰漫させている自然の諸要素を一定の構図のもとに抽出しようとしていると読むべきだということになる。












翻訳を通じて原文から立ち上る香りのヴァリエ―ションを味読する―ラフカディオ・ハーンの場合

2018-09-11 23:59:59 | 読游摘録

 ラフカディオ・ハーンの作品はすべて英語で書かれている。しかし、多くの日本人にとって、ラフカディオ・ハーンあるいは小泉八雲の作品に最初に触れる機会はその日本語訳によってであろう。異なった訳者たちによって何度も訳されてきた名編も少なくない。
 例えば、Glimpses of unfamiliar Japan(1894、その日本語訳は、角川ソフィア文庫では『日本の面影』というタイトルで出版されている)に収録された “Kitzuki: The Most Ancient Shrine of Japan” (「杵築― 日本最古の神社」)の次の一文を仏訳一つと日本語訳二つと比べてみよう。

There seems to be a sense of divine magic in the very atmosphere, through all the luminous day, brooding over the vapoury land, over the ghostly blue of the flood — a sense of Shinto.

Il semble y avoir un sentiment de magie divine dans l’atmosphère même, à travers toute la journée lumineuse qui plane par-dessus le pays vaporeux, par-dessus le bleu irréel des flots — un sentiment shintô.
« Kizuki le sanctuaire le plus ancien du Japon », trad. par Marc Logé, Gallimard, « folio2€ », p. 60.

この大気そのものの中に何かが在る――うっすらと霞む山並みや妖しく青い湖面に降りそそぐ明るく澄んだ光の中に、何か神々しいものが感じられる――これが神道の感覚というものだろうか。(遠田勝訳、講談社学術文庫『神々の国の首都』、1990年)

まさにこの大気の中に――幻のような青い湖水や霞に包まれた山並みに、燦々と降り注ぐ明るい陽光の中に、神々しいものが存在するように感じられる。これが、神道の感覚というものなのであろうか。(池田雅之訳、角川ソフィア文庫、2015年)

 原文の味わいをそれぞれに異なった言葉遣いで映し出し、香らせようと試みているのがわかる。こんな風に比べてみることも、原文をより深く味読するために無駄ではないだろう。