内的自己対話-川の畔のささめごと

日々考えていることをフランスから発信しています。自分の研究生活に関わる話題が多いですが、時に日常生活雑記も含まれます。

三木清『パスカルにおける人間の研究』を読む(十一)―「哲学は生の動性の第三の契機である自覚的意識として生そのものに属する」

2023-10-21 17:33:56 | 哲学

 おそらく『パンセ』のなかでもっともよく知られた「考える葦」の断章(S231, L200, B347)を人間の自覚的意識の表現として三木は引用している(40‐41頁)。

L’homme n’est qu’un roseau, le plus faible de la nature, mais c’est un roseau pensant. Il ne faut pas que l’univers entier s’arme pour l’écraser, une vapeur, une goutte d’eau suffit pour le tuer. Mais quand l’univers l’écraserait, l’homme serait encore plus noble que ce qui le tue, puisqu’il sait qu’il meurt et l’avantage que l’univers a sur lui. L’univers n’en sait rien.

人間ひとくきの葦にすぎない。自然のなかで最も弱いものである。だが、それは考える葦である。彼をおしつぶすために、宇宙全体が武装するには及ばない。蒸気や一滴の水でも彼を殺すのに十分である。だが、たとい宇宙が彼をおしつぶしても、人間は彼を殺すものより尊いだろう。なぜなら、彼は自分が死ぬことと、宇宙の自分に対する優勢とを知っているからである。宇宙は何も知らない。(前田陽一訳)

 三木によれば、この自覚的意識によって「人間は人間を限りなく超える」(« l’homme passe infiniment l’homme », S164, L131, B434)可能性が与えられるということになる。しかし、この二つの表現はそれぞれ異なった文脈の中で使われており、両者をこのように結びつけるのは三木の解釈である。
 パスカルは自覚的意識を有する者を一般に「哲学者」と呼んでいると三木は言う(41頁)。しかし、そもそも「自覚的意識」に対応する表現は『パンセ』のなかにはない。
 だが、三木がパスカルのなかに何を見出そうとしていたのかは、次の一節を読むとよくわかる。

すなわち哲学は生そのものの自覚に外ならないのである。哲学は生の動性の第三の契機である自覚的意識として生そのものに属する。[…]生のひとつの現われとしての哲学の意味を理解するためには哲学が生の裡から発生する過程の存在論的必然性が解釈されねばならぬ。哲学は[…]人間の存在にとって必然的なるひとつの存在の仕方である。すでに世界のうちにあるという我々の存在の根本的規定に伴う状態性は恐怖であり驚愕であった。この恐怖この驚愕に動かされる者は、世界とは何であるか、と問うに至るであろう。そしてこの問は最も原始的にはひとつの哲学である。(41‐42頁)

 三木は、パスカルにおける人間の研究の中に、学説としての哲学の起源ではなく、〈哲学すること〉の必然的な〈はじまり〉を見出そうとしている。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


前期前半の授業終了

2023-10-20 23:59:59 | 雑感

 二年生の日本古代史の授業は今日が私の担当分の最終日だった。前期の前半だけ担当するというのは例外的なことだが、これは研究休暇を取得したものは年間授業数を96時間に制限しなくてはならないという規定に基づく。計算上は他の授業の担当時間を減らすことも可能だったが、私の代わりに担当する教員のプロフィールを学科長と一緒に検討した結果、こうなった。
 先日も話題にしたことだが、今年の二年生は雰囲気の好い学年だ。よく聴いてくれたし、いい質問も毎回出た。今日が最後だと言うと、残念がる学生たちもいた。私もちょっと心残りだ。でも、このくらいのところで止めておくのがいいのかも知れない。
 来週、学部は試験週間。授業はなく、試験監督のみ。修士は、日仏合同遠隔授業が火曜日に、通常の演習が水曜日にある。ただ、テロリストがキャンパスを襲撃するという想定の県をあげての大規模な演習がその日に予定されており(なんとタイミングのよいことか!)、いつもの教室は使えないので、遠隔に切り替えた。同じ理由で、同日の学部の試験もオンラインに切り替えた。
試験週間の翌週は諸聖人の大祝日(Toussaint)の休暇。毎年のことだが、九月から十月にかけての学年度はじめの二ヶ月ほどが教員にとって一番忙しい時期だから、この休暇が待ち遠しい。
 休暇明けからは担当授業が一つ減ることもあり、今年はとりわけ気持ちが軽い。そのせいか、今日の夕方、ジョギングのときにいつになく体が軽く感じられ、七キロくらいであがるつもりだったのに、せっかく快適に走れているのにもったいないと、結局十二キロ走った。走った後も気分爽快だった。
 明日から、十一月末のパリ・ナンテール大学での研究発表の準備を本格化する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


三木清『パスカルにおける人間の研究』を読む(十)― 非キリスト教化された真理論

2023-10-19 23:59:59 | 哲学

 昨日の記事で取り上げた一節で、三木がパスカルにおける真理の概念について第二の論点として指摘しているのは、真理は進んで「自己の在るがままの態を現わすこと」である。この表現は、昨日の記事の『パンセ』から断章の二つ目の引用箇所のなかの « se faire voir tel qu’on est » に対応している。しかし、断章の文脈では、これはカトリックにおける「告解」について使われている表現であり、真理一般が問題になっているのではない。ところが、三木は、昨日引用した断章のなかの « à découvert » と合せて、いわば非キリスト教化された(laïcisé)真理論を『パンセ』から引き出そうとしている。

正しき人間とは自体においてはもとより数学や神学の真なる命題を数多く認識している者をいうのではない。かえって彼は自己及び他人についてその在るがままの態を隠すところなく見、かつこれを語る人間である。彼は自己の無知、欠陥、悲惨を話すことを恐れないように、他人のこれらのもの彼らに告げることを憚らない。彼は人間の存在を正しく諦視し、その諦視したところを正直に伝えるものである。かようにして真理と虚偽とは存在、とくに人間の存在の「存在の仕方」の概念に外ならない。(36頁)

 この節の末尾に付された最初の注のなかで、 「パスカルのいう « à découvert » は、ギリシア語の « ἀληθής » を[…]直訳的に現わしている」としているところからも、三木のこのパスカル解釈がハイデガーの真理論及び存在論の気圏のなかで生まれたものであることは明らかである。

 

 

 

 

 

 

 

 

 


三木清『パスカルにおける人間の研究』を読む(九)― 欠陥と悲惨という「真理」

2023-10-18 23:59:59 | 哲学

 『パスカルにおける人間の研究』の記述の順序とは逆になってしまうが、昨日の記事で取り上げた箇所の直前で、三木はパスカルにおける「真理」(vérité)の概念の解釈を行っている。そこに立ち戻りたい。
 三木によれば、パスカルにおける真理は、命題のそれを意味しない。真理とは、「存在」の存在の仕方、その特殊なる「存在の仕方」である。虚偽が存在の蔽われてある態であったのに反して、真理は存在の「蔽われずに」「顕わにされてある」(à découvert et sans voile, S681, L427, B194)態における存在の仕方である。「パスカルが欠陥と悲惨とを真理と呼んでいる」というときに三木が参照しているのは、自己愛について考察している断章(S743, L978, B100)である。三木の引用の仕方はかなり自由で、断章の文脈に沿ってはいない。断章の当該箇所を見ておきたい。

La nature de l’amour-propre et de ce moi humain est de n’aimer que soi et de ne considérer que soi. Mais que fera-t-il ? Il ne saurait empêcher que cet objet qu’il aime ne soit plein de défauts et de misère ; il veut être grand, et il se voit petit ; il veut être heureux, et il se voit misérable ; il veut être parfait, et il se voit plein d’imperfections ; il veut être l’objet de l’amour et de l’estime des hommes, et il voit que ses défauts ne méritent que leur aversion et leur mépris. Cet embarras où il se trouve produit en lui la plus injuste et la plus criminelle passion qu’il soit possible de s’imaginer ; car il conçoit une haine mortelle contre cette vérité qui le reprend, et qui le convainc de ses défauts. Il désirerait de l’anéantir, et, ne pouvant la détruire en elle-même il la détruit, autant qu’il peut, dans sa connaissance et dans celle des autres ; c’est-à-dire qu’il met tout son soin à couvrir ses défauts et aux autres et à soi-même, et qu’il ne peut souffrir qu’on les lui fasse voir ni qu’on les voie.

自己愛とこの人間の「自我」との本性は、自分だけを愛し、自分だけしか考えないことにある。だが、この自我は、どうしようというのか。彼には、自分が愛しているこの対象が欠陥と悲惨とに満ちているのを妨げるわけにはいかない。彼は偉大であろうとするが、自分が小さいのを見る。幸福であろうとするが、自分が惨めなのを見る。完全であろうとして、不完全で満ちているのを見る。人々の愛と尊敬の対象でありたいが、自分の欠陥は、人々の嫌悪と侮蔑にしか値しないのを見る。彼が当面するこの困惑は、想像しうるかぎり最も不正で最も罪深い情念を、彼のうちに生じさせる。なぜなら、彼は、自分を責め、自分の欠陥を確認させるこの真理なるものに対して、極度の憎しみをいだくからである。彼はこの真理を絶滅できたらと思う。しかし、真理をそれ自体においては絶滅できないので、それを自分の意識と他人の意識とのなかで、できるだけ破壊する。言いかえれば、自分の欠陥を、自分に対しても他人に対しても、覆い隠すためにあらゆる配慮をし、その欠陥を、他人から指摘されることにも、人に見られることにも、堪えられないのである。(前田陽一訳)

En voici une preuve qui me fait horreur. La religion catholique n’oblige pas à découvrir ses péchés indifféremment à tout le monde. Elle souffre qu’on demeure caché à tous les autres hommes ; mais elle en excepte un seul, à qui elle commande de découvrir le fond de son cœur, et de se faire voir tel que l’on est. Il n’y a que ce seul homme au monde qu’elle nous ordonne de désabuser, et elle l’oblige à un secret inviolable, qui fait que cette connaissance est dans lui comme si elle n’y était pas.

ここに私をぞっとさせる証拠がある。カトリック教は、自分の罪をだれにでも無差別にさらけ出すことを強いはしない。この宗教は、他のすべての人々に隠したままでいることを許容するが、ただし、そこからただ一人だけを除外する。その一人に対しては、心の底をさらけ出し、自分をあるがままの姿で見せることを命令する。この宗教が、われわれについての誤認を正すべきことを、われわれに命ずるのは、ただ一人の人に対してだけである。しかもその人は、不可侵の秘密としての義務を負わされているので、彼が持っているこの知識は、彼の中にありながら、あたかもそこにないのと同じようにされているのである。(同訳)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


三木清『パスカルにおける人間の研究』を読む(八)― 慰戯という生の自己逃避を越えて進むには

2023-10-17 23:59:59 | 哲学

 生の動性はまず不安定と倦怠として現れ、次に慰戯として現れる。「人間の本性は常に往くことではない、それは往と還とをもっている」(« La nature de l’homme n’est pas d’aller toujours. Elle a ses allées et venues. » S61, L27, B354 )。この往と還とのうちに成立する人間的存在の運動は、それ自体においては単なる永久の繰り返しである。どうすればこの悪しき無限から解放されるのか。「慰戯の段階を越えて進むべきものは、生の自己避難を征服して何らかの意味で生の自然に還り自己を回復するものでなければならない」(37-38頁)。しかしながら、それは元の自然に帰ることではない。
 ここで三木は、元の自然と自然性という区別を『パンセ』の断章(S563, L684, B21)を参照しながら導入する。前者を la nature に、後者を le naturel にそれぞれ対応させているが、このような区別が件の断章から導き出せるわけではない。パスカルは、人間の技巧(art)が自然の諸々の真理に無理強いした階層化を「自然ではない」と批判してはいるが、悪しき無限を抜け出して立ち戻るべき生の自然性なるものを目標として掲げているわけではない。自然の諸真理を人間の技巧から解き放って、それぞれ元の場所に戻すべきだというのが断章の言わんとしていることだと思われる。
 あらゆる慰戯は技巧である。技巧は真理を歪める。あるいは隠蔽する。技巧なしに本来の自然をあるがままに見ることは難しい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


三木清『パスカルにおける人間の研究』を読む(七)― 人間的存在の「動性」、あるいは「悪しき無限」

2023-10-16 23:59:59 | 哲学

 『パスカルにおける人間の研究』には「動性」という言葉が四十箇所あまり出てくる。それはまず人間の生の不安定性のことであり、人間の存在に固有な様態のことである。前から順に用例を拾ってみよう。

世界に向かう状態性がかようにして必然的に反動して自己に関係するところに人間的存在の最初の「動性」は現われると考えられる。(17頁)

動性こそ人間的存在の最も根本的なる規定である。(22頁)

人間的存在の動性は自体においては生の充実を齎さずしてかえって生の空虚を惹き起こすのである。(24‐25頁)

ひとは生のただ中にありながら生を求める。すなわちここに生の動性がさらに新しき自覚に移りゆくべき理由は存在する。(25頁)

生の動性の第一の契機は「不安定」(inconstance)である。(25頁)

しかしながら生の動性はただひたむきに前進するのみなる運動ではなくして、むしろその種々相(diversité)をもっておる。(26頁)

倦怠そのものはまた生の動性のひとつの基本的なる表現である。(27頁)

生の動性の第二の契機は否定的にあらわれる。この否定的なる動性をパスカルは一般に「慰戯」(divertissement)と名付けておる。(27頁)

生の動性は最初にはひとつの悪しき無限である。(32頁)

 「人間の研究」とは、人間の生の動性についての省察のことだと言ってもよいくらいだ。その動性が悪しき無限であるかぎり、人間は悲惨なままであり、その悲惨さから目を背けようとして慰戯に耽っても長続きはしない。遅かれ早かれ倦怠が訪れる。その倦怠から逃れようとしてまた慰戯に耽る。この悪しき無限の裡で死に至る。

La seule chose qui nous console de nos misères est le divertissement, et cependant c’est la plus grande de nos misères. Car c’est cela qui nous empêche principalement de songer à nous, et qui nous fait perdre insensiblement. Sans cela nous serions dans l’ennui, et cet ennui nous pousserait à chercher un moyen plus solide d’en sortir, mais le divertissement nous amuse et nous fait arriver insensiblement à la mort. (S33, L414, B171)

われわれの惨めなことを慰めてくれるただ一つのものは、気を紛らすことである。しかしこれこそ、われわれの惨めさの最大なものである。なぜなら、われわれが自分自身について考えるのを妨げ、われわれを知らず知らずのうちに滅びに至らせるものは、まさにそれだからである。それがなかったら、われわれは倦怠に陥り、この倦怠から脱出するためにもっとしっかりした方法を求めるように促されたことであろう。ところが、気を紛らすことは、われわれを楽しませ、知らず知らずのうちに、われわれを死に至らせるのである。(前田陽一訳)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


なんの繋がりもないものを繋げるメディアとしての〈私〉

2023-10-15 22:29:02 | 哲学

 十一月三十日(パリ・ナンテール大学)、来年三月中(ストラスブール大学)、五月二十四日(フランス国立図書館フランソワ・ミッテラン館)。これらはすでに決まっている研究発表及び講演。そこへ、先週、まったく予期せぬ別の発表の機会が舞い込んだ。一月上旬に早稲田大学で企画されているワークショップへの参加である。
 これらの機会の間に、人間関係的にはなんの繋がりもない。テーマにも相互関連性はまったくない。繋がりがあるとすれば、あるいは、繋がりをもたせるとすれば、それは私自身である。どんな意図(あるいは糸)でこれらが結びつくのか、あるいは、これらを結びつけるか、それは私次第である。
 でも、言うまでもなく、ただ好き勝手に話せばよいわけではない。どう繋げるか、ちょっと謎解きゲームみたいで、少しワクワクする。
 さしあたり、キーワードを並べてみる。
 人名の「三点セット」からいくと、パスカル、ハイデガー、三木清。エックハルト、ミンコフスキー、スタロバンスキー。メルロ=ポンティ、ミッシェル・アンリ、西田幾多郎。
 テーマ的には、人間学と解釈学的現象学、ノスタルジーとメランコリー、身体と生命の現象学。
 いま思いつくままに羅列したに過ぎない。
 敢なく空中分解に終わるか、新たな網状組織の形成に至るか。期せずして、来年前半の研究休暇のためのチャレンジングな「お題」をいただきました。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


人間の研究・世界の研究・自然の研究

2023-10-14 14:34:49 | 哲学

 ホワイトヘッドの『思考の諸様態』のなかの身体についての考えを見直しておきたい。見直しておきたいと言ったのは、まったく同じ文章を二〇二一年八月一〇日の記事で引用しているからだ。

For example, our bodies lie beyond our own individual existence. And yet they are part of it. We think of ourselves as so intimately entwined in bodily life that a man is a complex unity—body and mind. But the body is part of the external world, continuous with it. In fact, it is just as much part of nature as anything else there—a river, or a mountain, or a cloud. Also, if we are fussily exact, we cannot define where a body begins and where external nature ends. 
                             Modes of Thoughts, The Free Press Paperback Edition, 1968, p. 21.

たとえば、われわれの身体は自分自身の個的存在を超えて位置している。けれども、その身体は、個的存在の一部なのだ。われわれは自分のことをこう思っている。つまり、人間というのは、身体で営む生活ととても親密にからみあっているから、身体と精神との複合体だ、と。だが、身体は外界の一部なのであって、外界と連続している。実際、身体は自然のなかのなにか、たとえば、川とか、山とか、雲といったものとおなじように、まさに自然の一部なのだ。また、たとえわれわれが過度に厳密になろうとしても、身体がどこからはじまり、外部の自然がどこで終わるのか、といったことを定義することはできない。

 このような身体についての考え方も『パスカルにおける人間の研究』での「所有」と親和的である。とすれば、「人間の研究」はとりもなおさず世界の研究であり、自然の研究である。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


三木清の「所有」とホワイトヘッドの「包握」― ドゥルーズを介しての連接

2023-10-13 23:59:59 | 哲学

 10月9日の記事で、三木清の『パスカルにおける人間の研究』のなかの「所有」という言葉の使い方にちょっと因縁をつけた。
 そのときから possession ということが気になりだした。そういえば Philosophie des possessions (Didier Debaise (éd.), les presses du réel, 2011) という論文集を三年前に購入してあったのを思い出した。編者による序文のなかにドゥルーズの『襞』からの引用がある。「出来事とは何か」と題されたホワイトヘッド論のなかの一節である。

C’est autre chose qu’une connexion ou une conjonction, c’est une préhension : un élément est le donné, le « datum » d’un autre élément qui le préhende. La préhension est l’unité individuelle. Toute chose préhende ses antécédents et ses concomitants et, de proche en proche, préhende un monde. L’œil est une préhension de la lumière. Les vivants préhendent l’eau, la terre, le carbone et les sels. La pyramide à tel moment préhende les soldats de Bonaparte, et réciproquement.
                                                                                                                                      Le Pli. Leibniz et le Baroque, Minuit, 1988, p. 105-106.

これは連結や結合とはまた別のものであり、包握である。ひとつの要素はあたえられるものであり、それを包握するべつの要素にとっての「データ」である。包握とは、個体的(個別的)な統一である。あらゆるものはそれに先行するもの、それに付随するものを包握し、徐々にひとつの世界を包握する。目は光の包握であり、生物は水、大地、炭素、塩などを包握する。あるときピラミッドはナポレオンの兵たちを包握し、また兵たちはピラミッドを包握する。

 この一節が中村昇氏の『ホワイトヘッドの哲学』(講談社選書メチエ、2007年)にも引用されている。その少し先で中村氏は「包握」(prehension)についてこう説明している。

 われわれは、ほかのさまざまなものを知覚し認識する。知覚や認識することによって、逆に自分のあり方もきまるといっていいだろう。まわりの風景を見て、自分の位置を確認するようなものだ。もし、自分の周囲になにもなければ、自分自身もなくなってしまうにちがいない。そういう意味でわれわれは、環境のなかの対象を知覚し認識することによって存在しているともいえる。
 しかし、実際に認識などしなくても、まわりにあるさまざまなものによって、自分自身の位置やあり方が決まっているのもたしかだ。べつに意識しなくても、全宇宙を背景にして、自分という存在の位置は確定し、そのあり方もおのずと決まる。このような認識の有無とはかかわらない、自分以外の環境世界との関係の仕方を、ホワイトヘッドは「包握」と呼ぶのだ。

 三木清が「所有」をこの「包握」と近い意味で使っていたと考えると、『パスカルにおける人間の研究』の件の一節に対する違和感もかなり減少する。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 


愚か者の愚かならざる発言について ― モンテーニュ『エセー』第三巻第八章「話し合いの方法について」より

2023-10-12 09:05:52 | 読游摘録

 昨日の記事で引用した『パンセ』の断章は、モンテーニュの『エセー』第三巻第八章「話し合いの方法について」の一節を下敷きにしており、それをパスカル流にアレンジしたものである。それだけに二つの文章を読み比べてみると両者の性格の違いよくわかる。モンテーニュにはどこか暖かいユーモアが感じられる。長いが当該箇所を白水社版『エセー』の宮下志朗訳で引用する。はじめの方に出てくる「所有しているわけではなくて」は、原文では « ils ne possèdent pas » となっており、やはり posséder という動詞が使われている。 

 われわれは毎日のように、愚か者が愚かならざる発言をするのを聞かされている。うまいことを口にするけれども、どこまでわかっているのか、どこから借用に及んだのか、はっきりさせようではないか。彼らはそうした名文句とかみごとな理屈を所有しているわけではなくて、それらを借りて預かっているにすぎない。そして、彼らがそれらを使うのに、われわれが手助けしているのだ。彼らは手探り状態で、ひょっとするとそれらをたまたま口に出したのかもしれない。それにお墨付きを与え、もてはやすのは、われわれのほうなのだ。いいですか、あなた方が彼らに手を貸しているのですよ。でも、それがどうなります? 彼らはあなた方に感謝するわけでもなし、かえってそのせいで、ますますくだらない人間になっていくばかりなのです。連中を助けることなどやめて、好き勝手にさせればいいのですよ。手ひどい目にあわないかと恐れて、その主題をこわごわ扱うに決まってますよ。その位置や光線の具合を変える勇気もなければ、深く掘り下げる度胸もないのですからね。主題を、ほんの少しだけ揺さぶってやればいいんですよ。そうすれば、その主題は連中のところから転げ落ちるに決まってます。連中は、それがいかに強く、美しいものであっても、あなた方に譲るしかないのです。りっばな武器だって、取り扱いはむずかしいのですから。このわたしなど、何度も何度もそういう経験をしているのです。
 ところがである。あなたがわざわざ論点などを解明し、立証してやったりすると、すわ大変、ただちにあなたのこのおいしい解釈を奪い取り、「いやあ、わたしもそういいたかったんですよ。わが意を得たりとは、まさしくこのことですな。わたしがそう述べなかったのは、うまい言い方が見つからなかっただけなんです」などとのたまうのだ。ああ、まったく、あきれた言いぐさだ。こういう威張りくさった愚かさを矯正するには、意地悪だって使わないと割が合わない。「憎んだり、非難してはいけない。教え諭すことが必要だ」というヘゲシアス〔前三世紀の雄弁家〕の教えは、ほかの場合には正しい。けれども、助けてやっても知らん顔の半兵衛で、かえって悪くなるだけの人間を助け起こすのは、まちがっているし、不親切だ。わたしは彼らを泥沼にどっぷりつかるがままにさせて、いま以上に悪あがきさせ、可能ならば、もっと深みにはまらせて、最後には自分の非を自覚させてやりたいと思う。