●この忙しい年末に内田樹氏にメールをしてしまった。
こんな私のメールにも真剣に返事をくださった内田氏は非常に誠実な方としか言いようがない。非常に感激と感謝した。
●そこでいただいた言葉で、ここを読んでいる人に関係することと言うと出版された書籍でも教育目的ならコピーフリーと書いてあったことだ。
●これでこの連載も幅ができることになった。
●こんな誠実な内田氏の本を皆さん、どんどん買って、読んで下され。
●で、だ。
●下記は「論理性」についての文章である。
●国語屋をやっていて「論理性」という言葉にいつももやもやっとしたものを感じていた。
「論理学」の言う「論理」とは違う何かなんだけどなぁ、じゃあなんだと言われてもなぁというじれったい感情を持っていたのである。
●そのあたりのことをすとんと納得できる文章なのだ。
●その「論理性」を大学生に身に着けるべきこととして書かれてある。
したがって、中高生の方も目標としても良いわけだ。
●卑近な、しかも現世利益的なことで言うと、AO入試や推薦入試に必要なのは下記の内田氏の文章のような力だ。
私は面接指導でよく「他人事と思って話しなさい」などと指導をしてきたが、これと関係があったのかもしれない。
●では、読んで下され。
主題「そのもの」についての研究は、研究者本人が「現場にゆく、現物を見る、本人に会う、実際に経験する・・・」というフィールドワークをしないと始まらない。(刺青の研究をしたゼミ生は日本各地の彫師を訪れてインタビューをとってきた。ホームレスの研究をしたゼミ生は二人のホームレスに長期間同行取材を敢行した。花火の研究をしたゼミ生は寝袋かついで日本縦断花火の旅に出かけた・・・うちの子たちは代々フットワークがいい)
そこで得られた情報は「第一次資料」と呼ばれる。これこそ、その研究者が「研究共同体」に「贈り物」として提供することのできる貴重な学術データである。
データ収集に限って言えば、駆け出しの学生であっても、着眼点とフットワークさえよければ、斯界の大学者に負けない仕事をすることができる。
しかし、それだけでは済まない。
そのあとに、収集された資料を分析し、理論を立てるという「論理的思考」という仕事が要請される。
学生さんたちはこれが苦手である。
論理的に思考する、というのは簡単に言ってしまえば、「いまの自分の考え方」を「かっこに入れ」て、機能を停止させる、ということである。
「いまの自分の考え方」というのは、自分にとって「ごく自然な」経験や思考の様式のことである。
目の前に「問題」があって、それがうまく取り扱えない、というのは、要するに、その問題の解決のためには「いまの自分の考え方」は使いものにならない、ということである。
ペーパーナイフでは魚を三枚におろすことはできないのと同じである。
使いものにならない道具をいじり回していても始まらない。そういうものはあっさり棄てて、「出刃」に持ち替えないといけない。
「論理的に思考する」というのは、煎じ詰めれば、「ペーパーナイフを棄てて、出刃に持ち替える」ことにすぎない。
しかし、ほとんどの学生はその貧弱なペーパーナイフを固く握りしめて手放そうとしない。あくまで自分の「常識」だけで、料理をなしとげようとする。
自分の道具にこだわりを持つ、というのはそれ自体悪いことではない。
しかし、それでは「三枚におろす」どころか、ウロコの二三枚を剥がすのが精一杯である。
論理的に思考できる人というのは、「手持ちのペーパーナイフは使えない」ということが分かったあと、すぐに頭を切り替えて、手に入るすべての道具を試してみることのできる人である。
金ダワシでウロコを剥ぎ落とし、柳刃で身を削ぎ、とげ抜きで小骨を取り出し、骨に当たって刃が通らなければ、カナヅチで出刃をぶん殴るような大業を繰り出すことさえ恐れないような、「縦横無尽、融通無碍」な道具の使い方ができる人を「論理的な人」、というのである。
よく「論理的な人」を「理屈っぽい人」と勘違いすることがある。
「理屈っぽい人」と「論理的な人」はまったく違う。
「理屈っぽい人」はひとつの包丁で全部料理を済ませようとする人のことである。
「論理的な人」は使えるものならドライバーだってホッチキスだって料理に使ってしまう人のことである。(レヴィ=ストロースはこれを「ブリコラージュ」と称した。)
そのつどの技術的難問に対して、それにもっともふさわしいアプローチを探し出すことができるためには、身の回りにある、ありとあらゆる「道具」について、「それが潜在的に蔵している、本来の使い方とは違う使い方」につねに配慮していなくてはならない。
「いまの自分の考え方」は「自前の道具」のことである。
ということは、「そのつどの技術的課題にふさわしい道具」とは、「他人の考え方」のことである。
「自分の考え方」で考えるのを停止させて、「他人の考え方」に想像的に同調することのできる能力、これを「論理性」と呼ぶのである。
論理性とは、言い換えれば、どんな「檻」にもとどまらない、思考の「自由さ」のことである。
そして、学生諸君が大学において身につけなければならないのは、ほとんど「それだけ」なのである。
●全文はこちらから
こんな私のメールにも真剣に返事をくださった内田氏は非常に誠実な方としか言いようがない。非常に感激と感謝した。
●そこでいただいた言葉で、ここを読んでいる人に関係することと言うと出版された書籍でも教育目的ならコピーフリーと書いてあったことだ。
●これでこの連載も幅ができることになった。
●こんな誠実な内田氏の本を皆さん、どんどん買って、読んで下され。
●で、だ。
●下記は「論理性」についての文章である。
●国語屋をやっていて「論理性」という言葉にいつももやもやっとしたものを感じていた。
「論理学」の言う「論理」とは違う何かなんだけどなぁ、じゃあなんだと言われてもなぁというじれったい感情を持っていたのである。
●そのあたりのことをすとんと納得できる文章なのだ。
●その「論理性」を大学生に身に着けるべきこととして書かれてある。
したがって、中高生の方も目標としても良いわけだ。
●卑近な、しかも現世利益的なことで言うと、AO入試や推薦入試に必要なのは下記の内田氏の文章のような力だ。
私は面接指導でよく「他人事と思って話しなさい」などと指導をしてきたが、これと関係があったのかもしれない。
●では、読んで下され。
主題「そのもの」についての研究は、研究者本人が「現場にゆく、現物を見る、本人に会う、実際に経験する・・・」というフィールドワークをしないと始まらない。(刺青の研究をしたゼミ生は日本各地の彫師を訪れてインタビューをとってきた。ホームレスの研究をしたゼミ生は二人のホームレスに長期間同行取材を敢行した。花火の研究をしたゼミ生は寝袋かついで日本縦断花火の旅に出かけた・・・うちの子たちは代々フットワークがいい)
そこで得られた情報は「第一次資料」と呼ばれる。これこそ、その研究者が「研究共同体」に「贈り物」として提供することのできる貴重な学術データである。
データ収集に限って言えば、駆け出しの学生であっても、着眼点とフットワークさえよければ、斯界の大学者に負けない仕事をすることができる。
しかし、それだけでは済まない。
そのあとに、収集された資料を分析し、理論を立てるという「論理的思考」という仕事が要請される。
学生さんたちはこれが苦手である。
論理的に思考する、というのは簡単に言ってしまえば、「いまの自分の考え方」を「かっこに入れ」て、機能を停止させる、ということである。
「いまの自分の考え方」というのは、自分にとって「ごく自然な」経験や思考の様式のことである。
目の前に「問題」があって、それがうまく取り扱えない、というのは、要するに、その問題の解決のためには「いまの自分の考え方」は使いものにならない、ということである。
ペーパーナイフでは魚を三枚におろすことはできないのと同じである。
使いものにならない道具をいじり回していても始まらない。そういうものはあっさり棄てて、「出刃」に持ち替えないといけない。
「論理的に思考する」というのは、煎じ詰めれば、「ペーパーナイフを棄てて、出刃に持ち替える」ことにすぎない。
しかし、ほとんどの学生はその貧弱なペーパーナイフを固く握りしめて手放そうとしない。あくまで自分の「常識」だけで、料理をなしとげようとする。
自分の道具にこだわりを持つ、というのはそれ自体悪いことではない。
しかし、それでは「三枚におろす」どころか、ウロコの二三枚を剥がすのが精一杯である。
論理的に思考できる人というのは、「手持ちのペーパーナイフは使えない」ということが分かったあと、すぐに頭を切り替えて、手に入るすべての道具を試してみることのできる人である。
金ダワシでウロコを剥ぎ落とし、柳刃で身を削ぎ、とげ抜きで小骨を取り出し、骨に当たって刃が通らなければ、カナヅチで出刃をぶん殴るような大業を繰り出すことさえ恐れないような、「縦横無尽、融通無碍」な道具の使い方ができる人を「論理的な人」、というのである。
よく「論理的な人」を「理屈っぽい人」と勘違いすることがある。
「理屈っぽい人」と「論理的な人」はまったく違う。
「理屈っぽい人」はひとつの包丁で全部料理を済ませようとする人のことである。
「論理的な人」は使えるものならドライバーだってホッチキスだって料理に使ってしまう人のことである。(レヴィ=ストロースはこれを「ブリコラージュ」と称した。)
そのつどの技術的難問に対して、それにもっともふさわしいアプローチを探し出すことができるためには、身の回りにある、ありとあらゆる「道具」について、「それが潜在的に蔵している、本来の使い方とは違う使い方」につねに配慮していなくてはならない。
「いまの自分の考え方」は「自前の道具」のことである。
ということは、「そのつどの技術的課題にふさわしい道具」とは、「他人の考え方」のことである。
「自分の考え方」で考えるのを停止させて、「他人の考え方」に想像的に同調することのできる能力、これを「論理性」と呼ぶのである。
論理性とは、言い換えれば、どんな「檻」にもとどまらない、思考の「自由さ」のことである。
そして、学生諸君が大学において身につけなければならないのは、ほとんど「それだけ」なのである。
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