旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

シエナ散歩

2019-05-13 17:00:00 | イタリア
午後五時過ぎにシエナに到着。旧市街入口のホテルなのだから散歩に出よう。
シエナは三つの丘からできてる。その間、いちばん底に位置するのがカンポ広場↓

傾斜した貝殻型の広場、そのいちばん低い部分にプブリコ宮殿がある

一方、大聖堂は丘の上

大きさではなく美しさにおいてイタリア指折りである


坂ばかりだから、階段ばかり
教会の近くは滑りやすい大理石なので気をつけて


スーパーでちょこっとお買いもの
お昼のワイナリーで食べすぎたので今晩はこのぐらいでいいかな

**

翌朝、体力も回復して青空の下歩き出す
↓街のすぐ外に築かれた要塞は↓

↓巨大なメディチ家の紋章がはめこまれている。

1555年、シエナは最大のライバル=フィレンツェに敗れた。
フィレンツェは監視のためにこの要塞を建設して兵を駐屯させていた。

↓要塞のわきに、町に向かって手を挙げている女性の像↓彼女は?

彼女はこの町の出身の聖所カタリーナ。
ミイラになった彼女の首が祭壇に置かれているドメニコ教会↓

内部は改装されてひろびろとしている↓

カタリーナは若くしてドメニコ修道士会に入ろうとしたが、「あんたみたいな若くてきれいな人はどこぞへ嫁にいきなさい」として断られた。
それでも未練があったので在家の信者として敬虔な生活をおくっていると、キリストが目の前に現れて彼女と対話した。

↓こちらはキリストではなく聖ドメニコと語るカタリーナの姿↓二人の生きた時代は百年以上ちがうのだから出会ったことなどないのだけれど


カタリーナの家だったところは記念館・教会になっている。
そのすぐ横でコントラーダの祭りに使うのだろう男用のタイツが干されていた↓

コントラーダとは、シエナを十七に分ける町内会である↓それぞれのシンボルマークがある

↑ここはガチョウ地区。
他にゾウ、サイ、かたつむり、塔、などなんでもありのシンボルマーク。
なかでもこの青虫というのはかわっております↓

もともとは蚕で、絹織物をつくっていた地区だったのだろうとのこと。なるほど。

↓このあたりから見るとシエナの街の地形がよくわかる



↓街で最古のトロメイ家の屋敷は石造りで要塞の様

イスラムの月を制する紋章


さらに丘の底に向かっていく「フランチェジーナ街道」をゆくと↓
交差点に大きなロッジャがある建物↓

いわば商業裁判所
街道はイギリスのカンタベリーとローマ、さらにはエルサレムへの道だったので国際商人が行き来した。
そこで起きるもめごとを調停する場所である。

↓当時シエナはまだ独立国だったので、とりつけられているシエナの守護聖人たちは全員キッと(ライバル都市)フィレンツェの方向をにらんでいる


***今日はこの後シエナ大聖堂をフルコースで見学することにしている。
まずは付属の美術館へ
13世後半に描かれたドゥッチョ・ディ・ボニンセーニャの「マエスタ(荘厳の聖母)」は、小松の絵画の見方を変えさせてくれた作品↓

兄弟弟子のジョットとは異なり、ルネサンス的な卓越した遠近法も解剖学的に正確な描写もないが、
絵画の美しさとは本来そういう技巧ではないのだと認識した。

大聖堂のフルコース、楽しみです(^.^)

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サン・ジミニャーノへ

2019-05-13 10:38:29 | イタリア
「塔の街」サン・ジミニャーノが見えてきた

現在残る塔は十四本。かつてはあんな小さな町に七十本もにょきにょき立っていたのだそうな。
街の美術館にジミニャーノ聖人が護る15世紀ごろの姿が描かれている↓

たしかにたくさん立っております。
★サン・ジミニャーノは以前はシルヴィア(「森」の意味)という名前の街だったが、敵に攻められそうになった時に聖ジミニャーノに祈って難を逃れた(霧で隠されたとか?)ことから町の名前になった

周辺はワイン用の葡萄畑

ワイナリーのレストランがいくつもある

我々もそこでランチにした
看板犬がお出迎え

↓十四世紀ごろから?という農家の建物の二階に個室を用意してくださっていた

↓そこからの眺め

↓我々七人だけの為の前菜バッフェ

リッコタチーズが新鮮そのもの(^.^)

ひと口にハムといってもモノがちがいます

メインコースにピチといううどんみたいなパスタのラグーソース。

終わってからオーナーのウンベルトさんに蔵を案内していただいた

造っているワインに子供や奥さんの名前がつけられていた。
「ご自分のお名前のはないのですか?」と訊ねると、よく見るとどのラベルにも小さく彼の名前がワイナリーの名前として入っておりました(^.^)
**
街の正門=サン・ジョヴァンニ門前で下車。今回は九人乗りの車だからバスよりずっと時間がセーブできる

門をくぐると中世にタイムスリップ

この町を繁栄させたフランチェージナ街道(フランスへ続く道なのでこう呼ばれる)がこの道。
いや、イギリスのカンタベリーから聖地エルサレムへの道の一部でもある↓

↓かつて聖地を守ったエルサレム騎士団(テンプル騎士団と思われる)に属する14世紀の教会入口だった建物

火災にあって入口だけが当時のもの。隣は羊毛会館。
↓さらにゆるい坂をのぼってゆく

街の中心へはさらに古い門をくぐったところにあるチステルナ広場↓

「チステルナ」とは井戸の事。これが、それ。
周囲の建物は12世紀から14世紀にさかのぼる。

城壁をちょっとくぐった外側にこんなカフェ・レストランも

ひさしぶりに訪れたが観光客の増加とともにこういったお店の増加も実感した

チステルナ広場と隣接しているもうひとつのドゥオーモ広場に入る

二本の塔は、一説にはニューヨークにかつてあったワールド・トレード・センタービルのモデルになったのだとか。確かに似ているかも。
貴族たちの意地の張り合いのように高さを競って建てられた塔。このツインタワーは市が敷いた高さ規制に対抗してサルヴッチ家が二本ならべて権勢を誇示しようとしたのだそうな。
***
この街のドゥオモ=参事会教会に入ろう
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サン・ジミニャーノの参事教会、ポポロ宮殿の塔に登る

2019-05-13 07:00:00 | イタリア
サン・ジミニャーノの守護聖女フィーナが亡くなった時、町中の塔の鐘がかってに鳴りはじめた伝説がある。

**
サン・ジミニャーノのドゥオモ=参事会教会に入る↓
壁全面を覆うフレスコ画に圧倒される↓

建物は12世紀ロマネスクだが描かれているフレスコ画は14から15世紀にかけてのもの

↑ジョット的な表現や構図があるなかで…
特別なのは15世紀に装飾しなおされた
★「聖フィーナ礼拝堂」

1475年ドメニコ・ギルランダイヨ作のフレスコ画である
フィーナは十歳で身体が麻痺して動けなくなったが、あえて粗末な木の板の上に寝てキリストと同じ痛みを喜んだとされる。
↓十五歳で亡くなる一週間前に聖グレゴリウスが現れて彼女を祝福した図↓

↓寝ていた板の現物が、今も礼拝堂にたてかけられている↓

寝たきりの彼女のもとにやってきて祈ると様々な奇跡がおこった↓
↓世話をしていた老女(中央)のリュウマチが治り↓

↑足に触れた盲目の少年(フィーナの足元)の目がひらいた
↓亡くなった時には町中の鐘が自然に鳴りだして、菫の花がひらいた

↑★絵の左上で塔の鐘を鳴らしている天使が描かれているのが見えるでしょうか

今は使われなくなった教会入口裏の壁に描かれている聖セバスチャンの物語↓

疫病は放たれた見えない矢が突き刺さるのだと思われていた時代、何本矢にあたっても死ななかった聖セバスチャンが好んで信仰されたのだった。
絵を飾る枠の部分に前出の聖フィーナがベアート(福者)として描かれている↓

この絵の描かれた下の部分を見ると、もともとはこちらが後陣にあたっていたのがわかる↓

つまり、後の時代に入り口を真逆に方向転換していたのだ。
東西南北を確認すると確かにこちら側が東になっていた。
※教会は基本的に東を後陣にむけて建てる
***
中世の市庁舎=プブリコ宮殿へ入る↓

壁に残された「マエスタ」(「荘厳の聖母」と訳されるこの時代の定番人気図像)が目を奪う

↑リッポ・メンミ(シモーネ・マルティーニの義弟)の14世紀の作品

↓こちらはいちばんエライ人の部屋に残された夫婦の様子を赤裸々に描いたと思われる謎のフレスコ画↓


入場料に追加料金なしで、町でいちばん高いグロッサの塔(54m)に登ることができる

↑階段はしっかりした金属製で中央にこの町の歴史的なシーンが映し出されるスクリーンが縦長に吊るされている
↓最後はハシゴですが

360度素晴らしい眺望が待っている






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