旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

モンゴルの日本人墓地

2020-09-24 08:57:27 | モンゴル
2008年《手造の旅》モンゴルより
生きて帰ることのできた人々が1966年に訪れ、この地に眠る同胞に日本の復興を伝えた。

戦後、1945-47日本人抑留者のうち千七百人がモンゴルで亡くなっていた。

当時はこの柱をたてるのがせいいっぱいだったかもしれない。
今は立派な施設が建設されている。厚生労働大臣時代の小泉純一郎が訪問し、2001年彼が総理大臣の時に完成した立派な施設。

モニュメントの上に開けられた丸い穴がつくる円が日の丸のカタチを地面に映し出す。

モンゴル十六ヶ所にある日本人墓地からの土をそれぞれ持ってきている

多くの遺骨はいまは日本に改葬されたが、一度埋葬されたこの地は記憶している。

**

ウランバートルの北十五キロほど。

周囲は草原から住宅地にかわりはじめていた。
遊牧という生活形態は土地所有という概念からは遠い。
西欧的な社会システムがモンゴル人の生き方を変えていく。

フェンスで区切られた土地を与えられても、そこに変らずゲルを設営して暮らす人々。

急速な社会の変化に適応できる人々ばかりではない。

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ウランバートル市内~ガンダン寺、ウランバートル駅、恐竜博物館

2020-09-21 08:51:45 | モンゴル
2008年《手造の旅》モンゴルより


ウランバートルでいちばん大きな、つまりモンゴルでもっとも重要なチベット仏教の寺院である。
1788年から60年にわたって寺院が移動しなかったことによってイル・フレー(現在のウランバートル)という定住都市が建設されていった。※遊牧民族であるモンゴルの民は18世紀当時、寺も王宮もすべて移動するのが普通だった

政教一致だった1910年代のモンゴルでは宗教指導者=国の指導者。
この寺院でもっとも印象に残るのは巨大な観音像。

足元には生き仏の写真。みあげると・・・

高さ二十五メートルもある。

もともとの像は二十世紀初頭、短期間独立していたモンゴル・ウルス(モンゴル国)のボグド・ハーンが支配した時代につくられた。
1930年代にソ連の強い影響下に入った時に国中の寺院が壊され、この像も一度この時に壊された。だが、寺院の裏にあった柱のひとつが「のこぎりを入れられた時に血を流す」という奇跡が起こり、中断された。
今もあるその「血を流した柱」はなんだか電柱みたいなのだが、そんな伝説が残されている。

**
ウランバートル駅はシベリア大陸横断鉄道の支線にあたる。北京まで三十時間ほどになるそうだ。

ホームまで自由に入ることができる。

「電車」ではない

一日にそんなに数がくるわけでもない鉄道駅。待合室に日本と関係のある本が二冊売られていた。

マンガ「スラム・ダンク」と新渡戸稲造の「武士道」とは、すごい組み合わせです

***

自然史博物館、恐竜博物館。
モンゴルは恐竜化石がたくさんでる。

この方面の研究をするためにモンゴルへ来る人もあるほどに。

★1992年はじめてモンゴルを訪れた時、開いているはずの博物館が閉まっていたので「どうして?」と質問すると、「民主主義だから」と返事がかえってきた。
民主化がはじまった当時、商業自由化で急激なインフレが起こった。観光客などまだ少ない時代、国民にとって博物館などどうでもよかった。安い公務員賃金ではやっていけない職員たちはがらんとした博物館にいても金にはならず、さまざまな自活をしていた。
職員たちの事情で博物館が突然閉められることは、彼らにとっては「民主主義」だったのである。

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自ら悪魔に化身した元三大師

2020-09-16 19:35:34 | 国内
病魔の退散を祈祷している師・良源の顏がふと鏡に写ると、まるで鬼のように見えたそうな。

弟子が画き留めたその姿が今も厄除け札となっている。

良源は永観三年(西暦985年)正月三日に亡くなったので「元三大師」と通称されるようになった。
近江長浜で産まれたのは、小松がちょうど訪れた9月3日。

生地跡が天台宗の寺院になっていて、今日・誕生日は秘仏が公開されるという。
偶然だが、これは「来なさい」というお導きではなかったかしらん。

出発前に予約、ネットではなくFAXのみだった。
名前を告げるとお堂を守っている近所の方々が手書きの名簿から小松の名前をみつけてくれた。
「遠いところようおこしになりましたな」
いろんなモノをいただいたのだが、こんな元三大師良源の生涯を漫画にしたものがあった。

これ、わかりやすいです(^.^)

比叡山天台宗の中興の祖。
**
琵琶湖に面した小さな半島に尾上温泉があった。
その一軒「紅鮎」を下見。

それぞれの部屋に湖に面したお風呂がある

一見古い旅館だが、快適に改築されていた。

尾上温泉から竹生島はとても近い。
尾上から船をチャーターして湖上から桜を楽しめる旅を企画してみたい来年(^.^)

この宿の他にないところは「アールブリュット」作品を館内に飾っていること。

前知事の時代に滋賀県は「アール・ブリュット」をそだてることに力を入れていた。
※「アール・ブリュット」についてはまた別に書きます
***
グループツアーがよくランチをとっているという「鮎茶屋」を覗く

これはまちがいなくおいそそう(^.^)
この店も選択肢のひとつと認識。

****
琵琶湖名物でありキワモノ扱いされる鮒寿司をトライ!

※こちらに詳しく書きました
*****
鮒寿司をいただいたお店は長浜駅から続く古い御門前

この木彫は一見に値する

******

商店街を歩くと、
ここだけ異質な空間

「海洋堂」がある。

フィギュアファンにとっては憧れのお店なのだそうだ。

日本の手作りならではの細かいフィギュア。

商品の「おまけ」というよりも、こちらをほしくて買う人も多かっただろう。

長浜には観音様だけでなく多様な見所があり、会うべき人がいる場所だ。
2021春、長浜の桜と比叡山への旅を実現させたいです。

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奥琵琶湖長浜~驚異の西野水道

2020-09-13 11:11:30 | 国内
下調べで地図を眺めている時に、湖沿い南北に細い緑の尾根があるのが気になった↓尾根の中ほど湖側に、今回とりあげた「西野水道」の小さな表記があるのが確認できる↓この地形を認識しないとこの話ははじまらない。

江戸時代、この山のせいでふもとの西野村には水が溜まって水害に苦しんでいた。
「ならば、山を打ち抜く穴を掘り水を抜けばよい」充満寺の僧、恵荘が発案した。

↑この山の向こうにびわ湖がある。
手掘りで二百メートルを超える水抜き穴をあけようと発案したのだ。
驚きのアイデアだが、周辺住民を説得し彦根藩に許可をとりつけた。
※上の写真で見えている穴は百年後の昭和二十五年に開通した二本目の水道。江戸時代の一本目は土手をはさんだ右手奥にある。

恵荘は天保十一年(1840年)能登から三人の石工を呼び、琵琶湖側から掘りはじめた。

三ヶ月かけて十八メートル掘り進んだが、岩盤が固くてギブアップ!
どうする?

一年弱のブランクの後、恵荘は諦めず三十九メートルまで掘り進む。
1841年12月には逆の東側(今見えている側)から掘りはじめ、
1842年2月には二十メートルに至る。
一日に六センチしか進まない状況についに能登の石工は帰郷。
1842年7月、伊勢から三名の石工が到着。
水が出たり崩落したりの難事は続くが1845年6月3日午後二時ごろ、水道が貫通!

↑上の穴がその入口。
※農林水産省のHPにもこの話の概略が載せられています
高さ二メートル弱、全長二百二十メートルの水路がほとんどそのまま残されている。
この水抜き穴は機能しはじめ、その後百年のあいだ西野村を水害から救った。

今も内部はほぼ当時のまま

灯りはまったくない。途中には灯火を置いたサザエの貝殻や、崩落事故の跡もあるそうだ。
双方向から掘り進んだ穴が連結された場所は少し曲がっている。
無事につながってよかった。

予約すれば長靴やヘルメットを用意しておいてくださる。

今日は下見なので隣の昭和の隧道を歩いて(こちらは向こうからの光がじゅうぶん届いている)、琵琶湖側に出た。

先人の切実な願いが実現させた西野水道、来年春の《手造の旅》でぜひ紹介したい場所です(^.^)

さらに、この細長い山の上には三世紀ごろからの百基を超える数の古墳がのこされている。

日本海側は、古代の大陸からの人・モノ・文化の入口だった。
琵琶湖を航行する船からいくつもの古墳が見えていた筈である。

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北国街道散策、「つるやパン」と木之本の宿場町

2020-09-11 23:03:17 | 国内
たくわん入りのコッペパン=サラダパンが「つるや」の名物

あり?
ありです!
食べてみてそうおもった(^.^)

たくわんとマヨネーズがちょうどよい。また食べたい。
挟んであるモノが注目されがちだけれど、パン自体がおいしい。
「つるや」が地元でもずっと人気がある理由は、パンそのものが日本人に合ったやさしい味だからだと思う。
フランス風やドイツ風といった欧米で人気のパンとは異なる、日本の食文化に受け入れられやすいパン。
「つるや」のコッペパンはそのひとつにちがいない。
※「つるや」自身のHPにサラダパンができるまでの話をマンガでわかりやすく紹介されてる

このピエロの顏の「スマイルサンド」も食べておけばよかったなぁ

魚肉ハムとマヨネーズの「サンドウィッチ」も


これらの品がぴったりマッチする、昭和テイストあふれる店構。

この店は北国街道・木之本の宿のど真ん中にある


すぐ前の「木之本地蔵」は白鳳時代(七世紀後半・飛鳥時代)からの日本三大地蔵だそうで

ご本尊の秘仏をあらわした高さ六メートルの巨大な銅像がある。
↑上の写真でもちょっと写っております。
明治時代のものだが第二次大戦中に供出されなかったのは、東条英機の妻が寄進していた寺だったからという噂。
**
山が近く良い水が出るので造り酒屋も。
●山路酒造は16世紀に創業され「日本で五番目に古い」そうな。

日本酒ももちろんだが

名物は桑酒なのだそうだ※こちらお店のHPの説明があります


●冨田酒造は「七本槍」が看板

この文字は廬山人によるもの↑
ここに墨客として長期滞在していたのだそうだ。

こちらにも大きな杉玉
※冨田酒造のHPはこちらから
***
●本陣薬局は日本で最初の薬剤師免許を取得した店。

宿場町時代におエライ方の「本陣」だったのだろう。
古い薬の看板がいっぱい

北国街道は大名行列がとおるので、民家の二階はこんなふうに控えめになっている



こちら木之本駅からも歩いてこられる距離。

↑この中に案内所もあります(^.^)

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