旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

琵琶湖の朝、大浦の「丸子船の館」で琵琶湖の水運を知る

2020-09-10 08:13:26 | 国内

対岸、菅浦へ行く道ができたのは1970年ごろだったときいた。
奥琵琶湖は船で移動する方が理にかなった地形をしている。

竹生島周辺は琵琶湖で最も深いエリア。
湖底から七十メートルも屹立した岩の先端が湖面に突き出している。

鷺が浜で獲物を狙って並んでいる。

ていねいな朝食を楽しんでしばらく休憩。晴れているのだが時折驟雨が通る。
きのう「腹帯観音」を拝観した大浦まで行くことにした。

戦前まで琵琶湖の水運を担っていた丸子船の記念館が見たかった。

全長三十メートルほどで、海を行く北前船などと違い、船の底が丸くつくられている。

明治以降になると帆の他にスクリューも装着していた。
↑上の写真で底にスクリューの穴が開けられているのが分かる。

あ、等身大の人形が乗っていた(^.^)
江戸時代中期の享保十九年(1734年)には琵琶湖全体で1348隻が運行していた記録がある。

↑この図はもう少し前の時代に琵琶湖のそれぞれの港がどれだけの丸子船を持っていたかをあらわしている。
最北端の塩津がもっとも数が多い=栄えた港だったのだ。
日本海側の敦賀港から、山越えにはなるが今でも電車で二駅ほどでとても近い。
では、いったいどんなものが運ばれていたのだろう。

↑ダントツ一位は米!
新潟あたりから京都・大阪の大消費地へ輸出されていた。
その他の荷の名前、そのままでは理解できないものがたくさんある。
米についで二番目に多かった
●四十物(あいもの)とは、
保存用に加工した魚の総称で、干物ではなく軽く塩漬けにしたものと理解した。
鮮魚の風味を出来るだけ残した方が売れたのだろう。
日本海の敦賀港と琵琶湖が近接しているからこその商品だろう。

五番目の
●苧(からむし)は、芋(いも)ではない
イラクサ科の多年草で、小千谷縮(ちぢみ)の材料。
つまり、新潟の完成品だけでなく、原材料を買ってきて京都近くで織ったのかもしれない。

六番目の紅花は六月に山形を訪れたのでぱっと意味がわかった
●紅花
現在は山形県となっている米沢は江戸時代には紅花の一大産地で、そこでつくられる紅餅(べにもち)は目の覚めるような紅の原料だった。つまり、ここで言う紅花は紅餅まで加工されたものを米沢から最上川を下り鶴岡の港で大きい船に積み替えられて敦賀港へむかい、そこから山を越えて琵琶湖に運ばれていたのだろう。美しい紅は都の女性たちに大人気で相当な高値で売れた筈である。
※米沢の紅花工房を訪れた時の写真をこちらからごらんください

十三番目の
●笹目(ささめ)とは?
検索すると地名しか出てこない。
しらべていくと、なんと鱈(タラ)のエラだった!
大きな魚だからエラの部分もけっこう大きい。
九州の方では「鱈胃」と書いて「たらおさ」と呼ばれていた。
胃ではなくてエラなのですが。

真ん中少し下にある
●狗脊(くせき、クセキ)は漢方薬の原料。
ぜんまいの根っこの部分を乾燥させたもので「犬の背中に似ているから」
この名前になったのだそうだ。

下から五つ目の
●鳥子紙の読み方は本来「とりのこかみ」である。
雁皮(がんぴ)と呼ばれる落葉低木を材料とした最高級の紙。
鳥の卵の色に似ているからこの名前になった。
「越前鳥の子」はブランド紙だったそうな。

塩津の西隣の入江=大浦の港は↑こんな風景だったのか
※博物館のジオラマ模型

経済力を持っていた村は政治力もあって↑水利工事を陳情する書類も送っていた。

「船箪笥」は、万が一水の中に投げ出された時も取っ手の面が重さで下になり、しっかり密閉されているので中身が水に濡れない構造になっているそうな。
**
琵琶湖の水運は江戸の後期になるとだんだん重要性が低くなっていった。
かつては近江商人たちが牛耳っていた日本海の海運業者が力をつけ、琵琶湖を通らない海運ルートを拓きはじめたからである。
日本海を西に進んだ船は関門海峡を越えて瀬戸内に入ると「北前船」と呼ばれ、大阪まで直接商品を運ぶようになった。
直販ルートの方が利益が出たのは当然である。

明治になって、琵琶湖水運を復興させるために塩津と敦賀の間に船が通れる運河を建設する案があった。
おどろくことに、このアイデアは江戸時代までさかのぼり、実際に途中まで掘削工事が行われていた。
この件についてはもう少し調べる機会がほしい。
江戸時代の掘削工事を止めたと伝わる、その名も「堀止地蔵」も見てみたい。
そんな機会を、《手造の旅》でつくることができるかしらん。
***
大浦の村を少しあるくと、立派な八幡神社があった。

奥の拝殿には

新旧の絵馬がずらりとならんでいた


今は静かな港をあるくと

手作りの鮒寿司の看板があった。

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奥琵琶湖長浜~国宝十一面観音立像と安念寺の「いも観音」

2020-09-07 08:41:02 | 国内
ルーブル美術館のニケ像を思いだした。
※図録の写真より

長浜を訪れたら見ておくべきお姿である。
下はルーブル美術館の大階段にあるニケ(勝利の女神、英語風に発音するとナイキ)像

紀元前二世紀古代ギリシャにつくられたとされるこの像

時代も場所もちがうけれど、渡岸寺の十一面観音の前進姿勢・まとわる衣の表現に同じものを感じる。
**
渡岸寺の像は平安時代前期9世紀ごろにつくられたとされる。

最澄が天台宗をひらいたタイミングでひろまった仏像製作のひとつかもしれない。
比叡山の鬼門=北東に位置する長浜には天台宗の立派な寺がたくさんあった。
当時どのように祀られていたのかまったくわかっていないが、16世紀後半↑姉川の合戦の折に「ここに埋めて戦禍を逃れた」という解説版があった。

信長に憎まれた天台宗から浄土真宗に宗旨替えして「向源寺」となったが、(浄土宗系ではみとめられていない)観音像を祀るため「渡岸寺・観音堂」でもあるというややこしい形態ではある。

かつては本堂の阿弥陀如来の隣に置かれていたが、平成六年に専用の新しいお堂=展示スペースが開設された。
二メートル近い巨像だが周囲三百六十度どこから見ても隙がないことを感じられる場所だ。
特に、頭の真後ろにあるこの「暴悪大笑面」

「悪を笑い飛ばす」豪快な観音様の裏の顏と対面できる。

国宝指定の十一面観音は全国に七つあるが、
これだけ独創的な表情を大胆に見せているものは他にない。
現代の目からさえ斬新だということは、同時代の人々には「やりすぎ」に見えた?
だから「同じようにつくろう」と思った仏師はそれほどいなかった?
または真後ろにあるのでこれを見ることができた人は少なかった?
目立たない真後ろだから仏師も好きなように彫った?
様々な想像をめぐらせてしまう。

同じ堂内に(※「堂」というより博物館的な空間になっている)、
厨子に入った四十センチほどの「御前立」も公開されている。

こちらは八月に東京上野の「観音ハウス」にお出ましになっていた。
同じお像なのに上野で見た時より少し小さく見える。
お厨子に納められているからかしらん。

他に誰もいないので「小さいけれどこちらも端正できれいですねぇ」と、係員の方とお話していると、帰り際に東京上野で展示されていた時のポストカードをもって追いかけてきてくださった。御前立の方をしっかり見る人は案外少ないのかもしれない。 

小松としてはその隣に置かれていた半分朽ちたゾウの像もずいぶんおもしろかった。
京都・東寺にあるイケメンの帝釈天が乗っている白象と似ていた。
※2019年5月の東京での展覧会で撮影
渡岸寺のゾウも残っていたらこんなお姿だったのかもしれない。

寺を出てすぐのところにあった巨木に目が留まった。

この地方では「野神様」と呼ばれる巨木が十本以上もあって、この「槻の木=ケヤキ」もそのひとつ。8月16日には囃子も入った盛大な祭りが行われるそうな。
こういったケヤキが多いのでこの地は「高槻」と書かれていたが、11世紀平安後期に大江匡房(おおえのまさふさ)が名月の里だと和歌に詠んだことで「高月」と現在の名前に変えられたのだと解説版に書かれていた。

**
次に訪れた●安念寺の「いも観音」は、国宝の十一面観音とはまったくちがうお姿をしている。

山の際に位置する無住の寺。堂守をしている方に連絡しておいたので開けてお待ちいただいている。

この先の階段をのぼってゆくと

左の先の方が「いも観音」の納められているお堂。

由来は守っておられる皆さんがつくられた紙をそのまま読んでいただくのがよいだろう。

伽藍の跡は森にのみこまれてしまったのか


※小松が訪れた時の話をこちらに書いています
★お堂修復のためのクライドファンディングをしておられます!
小松も微力ながら協力させていただきました(^.^)


すぐとなりの神社が覆いをかけられている


内部に祠

何百年かの想いが宿っているという意味において、渡岸寺の国宝「十一面観音」も安念寺の「いも観音」も同じである。旅人として訪れる我々に必要なのは、その想いを伝えてくださる人にお会いすることだ。


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奥琵琶湖長浜~竹連寺、黒田観音、医王寺

2020-09-06 09:27:54 | 国内
●竹連寺は大正九年に建てられた小さなお堂である

もともと近くにあったお堂はなくなり、今の場所に移された。

この写真が撮られた時代のような人口はなくなってきているが

今も人々によって守り続けられている。
ご案内の方が連絡してくださっていたのでお堂をあけて、世話役の方四人でお待ちくださっていた。

陽射しは強く湿度は高かったが、今日は9月1日。
少し高くなったお堂を湖からの風が吹き抜けた。

祀られているのは平安時代中期とされるお像。

伝承によると「川から流れてきた」となっているのだが、これがそうなのか?
由来はよくわからない。
村の人々がずっと大切にしてきたことだけが確かである。
鮮やかすぎる台座は別のところから買ってきたと話されていた。
**
●通称「黒田観音」は七軒ほどの集落にある

いつもは閉めているお堂を開けに、農作業を中断してきてくださっていた。
お堂を開け、幕をひらくと,,,驚いた

※絵葉書より
二メートル近い迫力ある像が目の前に現れた。
後補はあるにしても欠けた部分の無い、バランスがとれた無理のない形状である。
いったいどうして?これだけの像がぽつんと一体だけここに残されているのだろう?
四年ほど前に東京で行われた長浜観音の展覧会に出展されたが、「もうだしません」とおっしゃっている。
これだけの像がひっそりとここに仕舞われて人目にふれないのは実にもったいない。

黒田官兵衛の家はもともとここの地名から家名をとった黒田宗清という人物からはじまるとされている。

ゆかりの誰かのものと思われる墓もある。

***
●医王寺は山道の途中にあった。レンタカーで行かなくてよかった。今回訪れた場所はどこも行き慣れていないとたどり着けない。事前に連絡しておかないと拝観することもできない。

十一面観音は端正なお顏だち※図録より

長浜の北東に位置する己高山(こだかみやま)にあったたくさんの寺院が戦乱で破壊され、続く平和な江戸時代を過ぎて明治の廃仏毀釈でまたも行き場を失った仏たちは多い。
医王寺の住職はそんな一体が古道具屋で売り出されていたものを救ってここに安置したのだそうだ。
「ということは、ご本尊はどちらに?」
後ろに見えた黒い屋根が本堂だった。

こちらはほとんど公開していない。
****
これらの仏像が拝観できるのはあたりまえのことではない。
拝観料などは維持するための費用のごくごく一部にしかならない。
それぞれの場所に住む志ある人々の献身に支えられて今日まで生き延びているのだが、次の百年をどのように維持していくのか、考えなくてはならない時期にきている。
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奥琵琶湖長浜~冷水寺の胎内仏

2020-09-05 07:00:59 | 国内
焼け焦げた像が姿をあらわすと「その場にいた二十人ほどが思わず手を合わせました」

冷水寺の(世界一小さな)「胎内仏博物館」が何を語ろうとしているのか、訪れてはじめて知った。


冷水寺は田んぼと住宅が混在する一角に残る小さなお堂である。

かつて宇根野寺 安浄寺という天台宗の大きな寺で、伝承によると本尊は行基(七世紀末から八世紀前半、奈良の大仏建造のための勧進役で有名)が刻んだものと伝わっていた↓

★この紙芝居は現館長の西嶋さんの手作り(^.^)

だが1583年(天正十一年)賤ヶ岳の戦いで寺ごと焼かれてしまった。

焼け焦げた像。
それでも村人たちは小さなお堂をつくり、無残な姿を「誰も見てはならぬ」と秘仏になった。

お堂は開かれないまま百数十年が過ぎた。
江戸中期1702年のある日、扉が自然に開いた。
村人は焼け焦げた像を納める「鞘佛」をつくることにした。

それが、今見えている十一面観音。

**
さらに三百年ほどが過ぎた1996年、お堂の改修が行われることになり、仏像も調査することになった。
中に何かが納められているという伝承はあったが、誰も中を見たことがなかった。
本尊の台座をあげてゆくと…★冒頭の写真

何百年も何代も経てゆくうちに物事は忘れられてしまう。
像をしらべていくと、行基がつくったものだと推察される物証がでてきたそうな。
「この出来事を伝える博物館をつくりたい」
現代の村人たちがそれぞれの技やお金を持ち寄り

上の写真の背景にある(世界一小さな)博物館ができたのだった。

前出の十一面観音の中には、今でも焼け焦げた胎内仏が納められている。

***
お堂には他にもいくつも木像が納められていた。

上の写真に写っている四つの神像は「観音の里資料館」に展示されているのを見た。
明らかに仏像とはちがう、どこか大陸的な雰囲気がある。

お堂の隅にも、由来の定かでない古い仏像がいくつも見えた。

いったいいつごろの?
どこにあった?
何の像なのか?

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奥琵琶湖長浜~大円寺、観音像、前田俊蔵

2020-09-01 10:44:54 | 国内
国内《手造の旅》で、滋賀北東部・長浜をとりあげたいと思っている。
高月駅近く、★大円寺の十一面千手観音像

室町時代の木彫。
賤ヶ岳の戦い(1583)の折、戦禍を避けるため地中に埋められて難を逃れた。

10:25に高月駅に到着、ちかくの大円寺をまず訪れる

巨大な杉が斜めに立っているのが目に入る

もとは二本あって「おしどり杉」だったのが、近年折れてしまった。

↑上の絵馬は、お堂の屋根の上に現れた観音様が参拝者を迎えている図。
↑二本の巨木が描かれている。
つまり、大円寺がずっと同じ場所で存在していることがわかる。
これはあたりまえのことではない。
戦国時代に戦禍や明治の廃仏毀釈において、廃絶・移転された寺は多い。
特に湖北地方はもともと比叡山の鬼門にあたるため立派な天台宗の寺が数多く存在したのだが、信長が叡山を焼き打ちしたのと同じころに破壊され、江戸時代以降には浄土真宗や曹洞宗の寺が主流となっている。


堂内に入ると、正面は幕があるだけだった。
お話がはじめると冒頭のお姿が見えた。
「写真、撮ってもろてかまいませんよ。このお像、きれいにするのに洗ろてしもたら色も落ちて学者センセにいわせると価値なくなってしもたんやそうですよ」と苦笑される。
それでも、信仰の対象としての意味はまったく変わらないし、こうして対して伝わってくる「何か」がかくじつにある。



**
本堂の片隅に位牌がある「前田俊蔵」という人物について、世話人の方が言及されて驚いた。

境内にある供養碑より、事件の概要は以下のようになる。
「明治十六年夏、百日以上日照りが続き田畑は亀の甲羅のようにひび割れた。
八月四日、高月の三か村は緊急用のセキを切って水を流したが水は届かなかった。
高月の背後の山の頂上にある、夏でも枯れない夜叉が池に祈祷に行こうという話になったが、池を領有する美濃の国池田郡川上村の夜叉龍神社の神主某は「神の御怒りに触れては畏れ多い」と言って、登山をゆるさなかった。
俊蔵らは秘密裏に決意して山道をよじ登り池に到達し、三日間龍神に祈り続けた。
祈祷を終えて越前方面へ降り、村への帰路につくと雨がふりはじめた。
雨乞い祈祷は成功した。
八月十五日、衣服をあらためた前田俊蔵は、ひとり野神塚(この地方では巨木を「野神様」と呼ぶ)の上で覚悟の切腹をした。
すでに世は明治。誰も介錯をする者はなく、苦しみもがく俊蔵。
通報をうけて警官がやってきた時はまだ息があった。
事情を訊ねても舌が喉を塞いでしまって声が出ない。
身体からあふれ出る血を指に漬けて傍らにあった桐の葉になにやら血書したが字が乱れて読めない。
矢立を出したところ事情を記した。
「先日、雨を祈った時、『もし雨を恵まれたならば私の命をささげます』と誓った。約束を果たしたまでだ」
書き終えるとにっこりわらって(ママ)息絶えた。享年二十六歳。
父は仁右衛門、母は竹内氏の人である。
きわめて良い生まれをもち、清く正しい心を失わず父母には孝をした。」
※明治十七年(翌年)六月に立てられた碑文より


位牌の下に「自刃の刀」と書かれた箱が見える↑

明治十六年といえば、琵琶湖の南では疏水工事が進行しはじめている。
科学技術もじゅうぶんいきわたっていた時代の筈だが、人々の心理というのは簡単には変わらないのか。
信仰心というのは科学技術が進歩してもなくなったりはしない。
人々の暮らしがどんなに便利になっても、祈りたくなる物事は起こる。

百五十年近くを経ても、前田俊蔵の行為をきけば胸をうたれるのである。


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