旅倶楽部「こま通信」日記

これまで3500日以上世界を旅してきた小松が、より実り多い旅の実現と豊かな日常の為に主催する旅行クラブです。

《手造の旅》五島列島~五島家の「心字ヶ池庭園」の邸宅

2020-11-12 11:23:14 | 国内
時代や洋の東西を超えた「趣味の良い」空間である。

↑殿様を引退した第三十代五島家当主・五島盛成(ごとうもりあきら)の部屋は、槍が振るえるように天井が高くしてある。



流行に左右されないというのは、幾何学的に心地よい空間。

イタリアのルネサンスと同じ精神が、気負うことなく体現されていた。

梅の花の裏と表をデザイン化している。
※天井の穴は通気口だとの解説

玄関先にあるこの板を三度叩くと、

障子がひらいてお迎えくださった。

すぐに屏風が目に入る。

京都から島流しでやってきた僧・全正の辞世の句

京都でやんちゃをやってこの地に流されてきたが悔しい身の上だがそれでも十分楽しい人生だった、と読めた。
心ならずも流されてきたけれど、地方だったからこそ才能を発揮できる庭園をのこせたのかもしれない。
※庭園についてはこちらに書きました

玄関を入ってすぐ左の部屋上部には「武者隠し」がある。
しかし、どうやってあがっのかしらん?


室内から見る庭園

五島盛成は亀が大好きでいろいろなところに亀が登場する。

この庭園自体も二匹の亀が出会ったカタチ。

釘隠し、こちらは江戸時代のオリジナルそのまま

↑こちらは復元品

欄間に遊ぶ亀たち。

障子の桟は七五三。

↑江戸末期にすでに流行っていた「氷割れ雪華(ひわれせっか)」の文様。

同時代イギリスのウィリアム・モリスの壁紙にも劣らない(個人的にはこちらの方が好き)。

この屋敷にはまだまだ見所がある。
次回訪れる時にはもっと時間をとって再訪しよう。
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《手造の旅》五島列島~五島家の「心字ヶ池庭園」へ

2020-11-12 04:21:10 | 国内
樹齢八百四十年を超えると推察される大楠が庭園を睥睨している。

五島家がまだ宇久家と称していた時代からこの地に育っていた木ということになる。

当時、この福江城(石田城)はまだなく、ご領主は数百メートル内陸の・今も「六角井戸」が残るあたりの屋敷に住んでいた。
幕末、外国船が頻繁にやってくる時代に日本国の南の備えとして築城された最後の城。

見事な石垣がほぼ完全な形でのこっている。

内堀の上

もともと天守のあった場所には

なんと高校が建てられている。

通常は跳ね橋になっているのが城だが、石のアーチ橋がかけられているのが時代の産物と言えるだろう。
十四年もかけて完成させたけれど、九年で幕末となり、第三十代藩主は城に隣接した館に隠居することになった。

そこがこの「心字ヶ池庭園」のある屋敷なのだ。
作庭したのは京都から島流しでこの島にやってきた僧・全正。

罪人なれどその才をみこまれ↑この石の上から二年間にわたり庭づくりを指導していたと伝わる。
そうか、全正が冒頭の大楠をこの庭の主役に据えたのか。

人の寿命からみれば「永遠」と呼べる年月を生き抜いてきた巨木。
庭園という人の技はほんのひと時巨木に寄り添わせていただいているだけ、ではある。


庭には三つの井戸があり、海が近いが真水をくみ上げることができた。
用途によって井戸が決まっていた。

野面積みの石垣は波に洗われた丸い石が積み上げられている。藩内外から力自慢が集まり、土つかずで浜辺から運んだのだそうだ。

この異国風な灯篭は、秀吉の朝鮮出兵の際の戦利品。
※オリジナルは一番下の台座の部分であとは復元と解説された
小西行長に従って朝鮮に渡り現地で戦死した第二十代五島家の当主が入手したと伝わっている。

この庭を楽しむことを目的に配置されたように建てられた館。

庭園の方にせり出してつくられている。

しかし、庭園を楽しむ装置というだけでなく、現代デザインの視点からも一見に値する空間になっている。

世が世ならお殿様であらせられる第三十五代五島家当主の方にご案内いただいた。

・・・屋敷内部のページに続く

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飯高の里山と巨木「スダジイ」

2020-11-10 12:42:19 | 国内
「日本の里山百選」にも選ばれたのだそうだ。

古民家の裏に案内されて下を見ると美しい田んぼがひろがっていた。

「ここ四五年、手入れがたいへんです。里山は人が住んでいてこそですから」

訪問して感嘆しているだけの我々はよいけれど、実際に住み続けて・快適な環境を維持するのはそうとうな努力が必要にちがいない。
「飯高まるごと体験博物館」というグループで活動されています
HPこちらからごらんください


瓦屋根の下には築百五十年近い梁があるのだそうだ。

《手造の旅》の本番ではぜひ拝見したい(^.^)
※今回の訪問では、某テレビの有名番組がロケをやっていて中へ入れず
**
この里山へ来るきっかけは「スダジイ」の存在だった。

樹齢千年と言われる椎の巨木

この木に出会うだけでもここを訪れる価値がある。

2021年、春の九十九里・銚子《手造の旅》でゆっくり訪問させていただきたいと思っております

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飯高檀林跡

2020-11-09 13:46:35 | 国内
総門をくぐると空気が変わる。

かつて学僧たちが集った境内。太い木々の中に小道がのこされている。

ここは日蓮宗の、いわば大学院だった「飯高壇林(いいだかだんりん)」。

三十近い塔頭がいわば学生寮になっていて、最盛期には千人近い僧が学んでいたことを想像するのは難しい。

近年の台風で多くの木が倒れたが、倒木があればすぐに片づけられる。
四つだけ残された建物がすべて国指定の重要文化財になっているから。

講堂=本堂だった場所。
その左右に授業を知らせていただろう「鐘楼」(左)、「鼓楼」(右)

授業に遅刻すると、即退学させられたそうな。

1650年の火災の後に建てなおされた木材を丁寧に修復し続けてつかわれている。

講堂向かって右手の↑この小堂

時代劇の撮影によくよく使われている。
**

↑「祟り石」とは物騒な名前・・・
このあたりは石が取れなかったので舘山などから切り出して輸送していたのだが、
ある途中の村がこの石を盗んだ。
すると、次々悪いことが起きたので悪事を悔いて行くべきこの場所に納めにやってきたのだそうな。

広大な敷地はもともと城があった場所でところどころ高低差がある。

★学僧たちが渡る橋の下に一匹のキツネが住んでいた。
講義を毎日耳にしているうちに「ぼくもべんきょうしたいなぁ」と思い、学僧に化けて参加しはじめた。

橋門伝八と称して成績もよかったのだが、
壇林長代替わりの酒席で酔ったひょうしに尻尾を出してしまった。
「畜生ながら仏教を学びたい一心は尊し」

講堂のすぐ近くに「古能葉稲荷大明神(このはいなりだいみょうじん)」として、今も祀られている。

小さな社の龍の木彫がすばらしい。

講堂の裏にある牡丹園がきれいなのだとか。
2021《手造の旅》千葉九十九里銚子、牡丹のきれいな頃に企画してみようかしらん。

「飯高はお米がおいしいのよ」

駐車場で勧められて二キロ買っちゃいました(^.^)
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旭で版画家の土屋金司さんを訪ねる

2020-11-07 22:57:39 | 国内
布団屋の奥の扉を入ると、いずれ劣らぬ迫力の版画が壁を埋めていた。

今年三月、九十九里で偶然連れて行ってもらった寿司屋で見かけた版木

※三月の九十九里訪問はこちらからごらんください

やっとお会いすることができた。
土屋さんの作品は十二神将や仏様などもあるが、小松の私見では鬼がいちばん生き生き魅力的(^.^)!

見ていてわくわくする↓「鬼に金棒」

誰の心にも鬼はやってくる

こっそり

装丁もよく合っている

お住まいの旭市のイメージ

ひときわ大きな「犬吠の太郎」は、高村光太郎の詩に由来する
元の大きさで見ることができてほんとによかった。


文化会館の緞帳の原画も、若い頃の土屋さんの作品がつかわれているそうな

今日は午後から催しがあって緞帳そのものを見ることが出来なかったが、

未だ三十代だった土屋さん、線も色使いもちがう。
巨大な緞帳、2021春の《手造の旅》で鑑賞できるようにしたい(^.^)

話題のアマビエ絵馬スタイルも製作されていました!
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