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若松監督は、
中上健次を確実に掴んでいる。
今日、
作品を見て、
原作と「同じ」であることに、
驚いている。
なぞったとか、
原作に忠実とか、
そういうことではなく、
若松監督は中上健次と重なっているのだ。
それが何かを、
時間をかけて自分だけで考えたい。
中上文学のキーワードを羅列して、
それらしく言うことは簡単だ。
僕は書いた。
「千載一遇の瞬間を軸にして、来し方行く末を描ききった作家」
だとかナントカ。
こんな安易で乱暴な言い方がよくできたものだ。
憶えた、知ったばかり言葉を、
無知な僕がコラージュしただけだ。
若松監督は中上健次を掴んでいる。
それだけはこの映画を見れば判る。
問題はそれが何か、
だ。
原点だとか原初だとかそんなことじゃないんだ。
おそらくそれは、
文学の毒といわれるもの、
おそらくそれは混沌としたもの、
それを若松監督は掴んでいる。
判らない。間違いなく、ある。
だけれど、
それが何なのかが判らない。
中上健次がある時期に言った。
「今、安吾が見える」
中上は、坂口安吾を、
その時に見えたという。
掴んだ、ということだ。
中上健次の核(という言い方が正しいとは思わない、むしろ、「混沌」)、
は何だ。
それは何だ。
---追記
ある評者が、
「この映画を撮ったことは奇蹟だ」という。
「「千年の愉楽」が書かれたことは奇蹟だ」という。
思った。
以前、浅田彰が中上健次の「奇蹟」
という作品に、
「「奇蹟」はまさしく奇蹟的な作品だ」
と書いたことを。
あれから30年は経っている。
それをまだ繰り返すのか?
僕がほしいのは、
自分の言葉だ。
借り物ではない、
自分の言葉だ。
それをやらないと。
中上健次の二つの目と、
若松孝二の二つの目、
計、四つの目が、
見ている。
もうごまかしはきかない。
そのことを、
この映画は強く言っている。
同じ時期、
村上龍が坂本龍一と「千年の愉楽」を、
メタリック(白黒でしかも輝いている)で撮りたいと、
角川春樹に申し込んでみたら、
お金を出してほしいだけだったのに、
角川が「それじゃあ俺がやる(撮る)しかないな」
と言われ、二人で唖然としたこと。
そんな笑むエピソード。
あれから、
今日、
初めて、
「千年の愉楽」が、
映画化された。
感慨深い。
同じ時期、
柄谷行人は、
「大江健三郎は文化人類学(先日亡くなった山口昌男)を導入しているが、
中上健次は文化人類学の対象そのものである」
と書いている。うまいこという人がいるもんだ、と思った。
柄谷と安岡章太郎(も、こないだ亡くなった)の対談で、
「実感ということが一番大事なんだ」
ということを安岡が言っていた。
あれから、
文学はどうなった?
死んだとか、死にゆくとか、
大江、中上で文学は終わったとか。
あれから、
文学はどうなった?
消毒された。
あったはずの毒の正体。
それが、知りたい。考えたい。
「千年の愉楽」は、
本来普遍であったものだ。
その普遍を若松監督は掴んでいるんだ。
悔しい。判らない。
中上健次と柄谷行人は、
朋輩だった。
「どちらかの(精神が)弛緩したら見捨てる」
という約束があったという。
そういう緊張感のある話を、
思い出させるのは、
他でもなく、
若松監督が撮った、
「千年の愉楽」だ。
若松監督は、
中上健次を確実に掴んでいる。
今日、
作品を見て、
原作と「同じ」であることに、
驚いている。
なぞったとか、
原作に忠実とか、
そういうことではなく、
若松監督は中上健次と重なっているのだ。
それが何かを、
時間をかけて自分だけで考えたい。
中上文学のキーワードを羅列して、
それらしく言うことは簡単だ。
僕は書いた。
「千載一遇の瞬間を軸にして、来し方行く末を描ききった作家」
だとかナントカ。
こんな安易で乱暴な言い方がよくできたものだ。
憶えた、知ったばかり言葉を、
無知な僕がコラージュしただけだ。
若松監督は中上健次を掴んでいる。
それだけはこの映画を見れば判る。
問題はそれが何か、
だ。
原点だとか原初だとかそんなことじゃないんだ。
おそらくそれは、
文学の毒といわれるもの、
おそらくそれは混沌としたもの、
それを若松監督は掴んでいる。
判らない。間違いなく、ある。
だけれど、
それが何なのかが判らない。
中上健次がある時期に言った。
「今、安吾が見える」
中上は、坂口安吾を、
その時に見えたという。
掴んだ、ということだ。
中上健次の核(という言い方が正しいとは思わない、むしろ、「混沌」)、
は何だ。
それは何だ。
---追記
ある評者が、
「この映画を撮ったことは奇蹟だ」という。
「「千年の愉楽」が書かれたことは奇蹟だ」という。
思った。
以前、浅田彰が中上健次の「奇蹟」
という作品に、
「「奇蹟」はまさしく奇蹟的な作品だ」
と書いたことを。
あれから30年は経っている。
それをまだ繰り返すのか?
僕がほしいのは、
自分の言葉だ。
借り物ではない、
自分の言葉だ。
それをやらないと。
中上健次の二つの目と、
若松孝二の二つの目、
計、四つの目が、
見ている。
もうごまかしはきかない。
そのことを、
この映画は強く言っている。
同じ時期、
村上龍が坂本龍一と「千年の愉楽」を、
メタリック(白黒でしかも輝いている)で撮りたいと、
角川春樹に申し込んでみたら、
お金を出してほしいだけだったのに、
角川が「それじゃあ俺がやる(撮る)しかないな」
と言われ、二人で唖然としたこと。
そんな笑むエピソード。
あれから、
今日、
初めて、
「千年の愉楽」が、
映画化された。
感慨深い。
同じ時期、
柄谷行人は、
「大江健三郎は文化人類学(先日亡くなった山口昌男)を導入しているが、
中上健次は文化人類学の対象そのものである」
と書いている。うまいこという人がいるもんだ、と思った。
柄谷と安岡章太郎(も、こないだ亡くなった)の対談で、
「実感ということが一番大事なんだ」
ということを安岡が言っていた。
あれから、
文学はどうなった?
死んだとか、死にゆくとか、
大江、中上で文学は終わったとか。
あれから、
文学はどうなった?
消毒された。
あったはずの毒の正体。
それが、知りたい。考えたい。
「千年の愉楽」は、
本来普遍であったものだ。
その普遍を若松監督は掴んでいるんだ。
悔しい。判らない。
中上健次と柄谷行人は、
朋輩だった。
「どちらかの(精神が)弛緩したら見捨てる」
という約束があったという。
そういう緊張感のある話を、
思い出させるのは、
他でもなく、
若松監督が撮った、
「千年の愉楽」だ。
中本の血は中上の血だったのかと・・・。
オリュウノオバはだからただ手を合わせてたんだ。
すごい文学だ。
すごい映画だ。
まだ途中・・・。
路地は世界中の路地に通じる。
映画「バベル」を見て、モロッコ、メキシコ、東京を同時に描いた監督は、おそらく中上の作品を読んでいるように思った。
明日、千年の愉楽の話を詰めるために、友達に会ってきます。おそらく、若松監督が掴んだものが、あれだ、という予感がしてきています。それは、僕の創作の糧になることでしょう。
まりりんさんの記事がなかったら、このような連鎖はなかった。ありがとう。