御子息
谷川賢作さんの
Facebook での記事を
引用させていただきます
【父・谷川俊太郎が13(水)の夜に亡くなりました。92歳でした。
私は中国からの公演の帰途についているところで間に合いませんでしたが、妹の志野が急遽NYCから駆けつけてくれて、娘と一緒に最後を看取ってくれました。穏やかな最後だったということです。
多彩な詩で多くの人を魅了し。。。いや、そういう紋切り型ではなく、息子の目から少し
今年三が日が過ぎてから一時的な不調におちいり、その後5月、7月にも一時的な不調時期はあったのですが、そのたびに数日後にはケロッと立ち直り、特にどこか病気ということではなく「自宅で最後まで生活したい」という本人の意思を尊重し、療養というか生活というか、チーフヘルパーのFさんとそのチームの方々と二人三脚で介護してきました。
いつもユーモアとウイットに富んだ人で、好調時は変わらぬ俊太郎節もきけて楽しかった。不調時は「今日はベッドから出ない」なんて言い張る日もありましたが、なんとかなだめすかしベッドから出て車椅子でリビングに移ると、またケロッと機嫌良くなったり😅
それにしても朝日新聞の連載最後の詩が「感謝」だ、なんて。。。ヘルパーさんや私のこまごまとしたことにも必ず「ありがとう」と言ってくれました。感謝しなければいけないのは私を含めた家族全員です。
いつか私がぼそっと「おれはあなたほど売れてないから。。。」と呟いた時「人はそれぞれが、それぞれのところでしっかりやればいいんだよ」とボソッとこたえてくれました。そういうとこも含め歳とっても謙虚な人でした。92歳でもTシャツとGパンが似合うような。
コメント欄は「記帳コーナー」のようにあけておきますが、個々への返信はできません。お許しください。メッセージも同様です。
皆様と同様私も、俊太郎の詩に驚き、感心し、クスッと笑わされ、ほろっと泣かされ、楽しかったですね。
紋切り型ですが、彼の詩はずっと皆さんと共にあります。
ありがとうございました。深く深く感謝申し上げます。】
以下
谷川さん
お疲れ様でした
ありがとう
🌿大岡信が谷川俊太郎について
「お前が作ってるのは『金太郎飴』だ」
と 座談会で楽しく笑いながら
話していました
同じような 詩人の集まりの中でそんな風に言っていたという
ポップという気持ちが前からあって20代の時から 谷川俊太郎の作品たくさん読んでいた
確かにどんな作品を読んでも同じような文体 なので 大岡信が言うのは本当だと思う
それであったとしても面白かった
新刊があったら買って読んでいた
どの作品だったか もう忘れてしまったけど
『世間知ラズ』は難解だと言われたと言う
🌿名古屋の中部ペンクラブというのがあって
講演できてくれた
詩について谷川俊太郎に 誰も聞いていないというのは失礼だったな
名古屋の人たちが
あの 谷川俊太郎 が来てくれていたのに
知多の出身というだけで
その話を聞くというのは
本当に恥ずかしかったと思った
谷川俊太郎は T シャツだった
🌿
谷川俊太郎と高橋源一郎が新聞の対談で随分前に話していたこと
「文が短くなる時代になる」
その通りだろうな
と思って
まだ10年ぐらい前の最近
Twitter が出てきた
そういう風に 時代が変わってきた あの記事は読んでおいて良かったと思う
🌿
谷川俊太郎の『間違い』という作品において
冒頭から八木重吉 からの引用 から始まる
八木重吉 は熱心なクリスチャンでそういったものに対して 祈りについて 谷川俊太郎は嫉妬を持っていたと思う
谷川俊太郎はあそこまで深く祈りにおいて できなかったということだと思う
あの作品『間違い』を読むと2つの美しい作品を見ることができる
🌿
小室等や 高田渡が
谷川俊太郎の詩を歌っていた
フォークソングは文学だった
🌿
谷川俊太郎は ワードプロセッサーの前で
詩を作る前に
ぼーっとしていて頭を真っ白にしてそれで言葉が浮いてくるという
当時 そんな風に思ったんだなって思った
🌿言葉を遊んでいたということを一冊一冊で教えてくれたのは 谷川俊太郎
高橋源一郎の先生というのは
谷川俊太郎の一人である
現代文学が
フォークシンガーが作っていた 詩を
全部文学だということを今だったらわかる
歌があって言葉が出てくる
または
言葉があって歌が出てくる
私の場合は
歌があって言葉が出てくる
のが根源的なもんだと思う
🌿
詩『ごあいさつ』をもっと世の中にあの時期に広げたのは高田渡です ユーモア
『ごあいさつ』
谷川俊太郎
どうもどうも
やあどうも
いつぞや
いろいろ
このたびはまた
まあまあひとつ
まあひとつ
そんなわけで
なにぶんよろしく
なにのほうは
いずれなにして
そのせつゆっくり
いやどうも
🌿
谷川俊太郎のお父さんは
言った
「『雨にも負けず』が今のところ一番最高の詩だ」
谷川俊太郎はある時 言っていた
「僕はインテリなんです」
そんな風に言うのが嫌味でも何でもなくて そんな風にふっと言えるのは大したもんだなと思った
🌿
宇宙という意識は
霊性という意味で
吉増剛造でも
藤井貞和でも
宇宙という霊性について
大江健三郎でもそう
宗教という名刺が必要だったけど
文学の中で
宇宙の霊性ということを
みんな 言っている
けれど
もっとポップに
宇宙について書いたのは
谷川俊太郎だ
ポップに書いたのは 谷川俊太郎だ
🌿
谷川俊太郎は高齢者になってくると
施設に暮らしていた
といっても あれは テレビで見ていたのは小規模の施設に行って数人しかいなかったと思う
食堂みたいな小さな食卓で
横並びでみんなと 食べているんだけど
谷川俊太郎は晩御飯しか食べない
「朝も昼も全然食べないんですよ 夜だけです」
と言いながらも夜だけは いっぱい食べるみたいで そのテレビの中でも魚や肉を食べていた
谷川俊太郎は早い時期にあんなに有名な人でもそういうところに一緒に暮らしてるって言うのはある意味では新鮮だった
高齢者時代の初期だったと思う
そういう意味で 社会的な人だった
晩年は施設ではなかったのかもしれませんけど
高齢者として家族に迷惑をかけないように 施設に入っていたのかもしれない わかりませんけど
🌿
谷川俊太郎は
仕事として初期から絶対にお金をもらわないと詩を 書かないという風に言っていた実践もした
仕事があれば詩を書いた
詩を書いたらお金をもらった
ビジネスとしてどんな詩でもできる人だった
もちろん その仕事先の内容に のみ だけだけど
🌿仕事は 機能的で技能的でユーザーに確実に作品を出した
ビジネスの詩人
おそらく 谷川俊太郎を真似したのは仕事のスタイルをしたのは村上春樹 だと思う
村上春樹は 一切 そういった言葉は言わないけど 谷川俊太郎のスタンスというのを 村上春樹は 真似てると思う
詩と小説を読めば 同じような匂いがする 同じような文体を作っていく
枠の中に確実に言葉を並べていく
パズルの言葉みたい
そういう意味では 枠から外していく吉増剛造、藤井貞和と意味が違ってくる
茨木のり子とスタンスで書いてるんだけども
だからこそ世の中のいろんな人に詩を読んでいない人でも簡単にわかる詩
谷川俊太郎は法律を守り秩序を守り構造的な作りの作品
車にしても服にしてもスタイルを通していく
スポーツカーで来る谷川俊太郎
加藤和彦らと同じようなおしゃれな人たち
スマート
谷川俊太郎は一体何を信じていたんだろう
おそらく 何も信じていなかったのではないかな
と思う
谷川俊太郎は額から線を出さなかった
それ以上でもそれ以下でもない
谷川俊太郎は中庸
これこそが難しい仕事
🌿ある時期に『詩のボクシング』が BS でやっていた
いろんな人がいっぱい出てきて 一番面白かったのは ねじめ正一
対決 出てくるのが谷川俊太郎 の即興詩
谷川俊太郎は 連勝していてもあまり面白くなくて アクションとしてはいろんな人がいっぱいいて面白い番組 だった 本当に 言葉だけの人だった
リングの下でバカみたいなことやってたのは 私は中継だと思ったんだけどずっと後から それは 録画だと思った あれはプロデューサーが上手かった リンク下で遊んでたのは小林克也と高橋源一郎
🌿
谷川俊太郎は毎日仕事に行き全部やってそれで家に帰ったっていう感じがする ビジネスマン 詩人
仕事先は地球
帰った家は宇宙
🌿
御子息
谷川賢作さんが
谷川俊太郎について言った言葉を掲載していて
私自分にも
あらゆる 意味で
重なったような気がして
涙が出てしまった
ある時の
言葉だった
こんなやり取りがあったらしいという
『いつか私がぼそっと「おれはあなたほど売れてないから。。。」と呟 いた時「人はそれぞれが、それぞれ のところでしっかりやればいいんだ よ」とボソッとこたえてくれまし た。そういうとこも含め歳とっても 謙虚な人でした。92歳でもTシャツ とGパンが似合うような。』
「人はそれぞれが、それぞれのところでしっかりやればいいんだよ」
🌿 ありがとう
谷川俊太郎にありがとうなんて思いません
意思を持って前に行くだけだ
あまりにも大きな
言葉のビルを
いっぱい作って
空に帰って行った
本当にお疲れ様でした
ありがとうございます
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