職場で若い同僚が私のところに何やら持ってきた。
「これ、やばいっす。」
と言って差し出してきたのは任天堂の3DSだ。
「そんなにすごいの?」
と尋ねてみると、
「まぁ、みてくださいよ」
と言って、サッカーゲームを立ち上げてみせてくれた。3Dのゲームとかテレビが流行っているらしいということは知っているのだが、ゲーム機もテレビも持っていないし、関心もないので3Dというものがどういうものなのか知らなかった。果たして、その画面を見ると感心するほど画がきれいだ。小さな画面にもかかわらず、そこで展開されている世界が大きなものに感じられる。特に目を引いたのはスタジアムの芝生と照明の質感だ。人物やボールが浮き出ているかのように見えるであろうことは容易に想像がついたのだが、ゲームそのものとは無関係ともいえる背景をどれほど精緻にするかによって全体の印象が大きく変わるというのは今回のささやかな発見だ。
しかし、いくら精緻な映像を作り上げることができたとしても、作り物であることにかわりはない。精緻であるがゆえに、そこでの体験があたかも現実の体験であるかのような錯覚をもたらすとすれば、かえって人の生活を小さなものにしてしまうかもしれない。ゲームで培った技術やノウハウは勿論、医療とか行政とか交通関係者の訓練など様々な分野で応用ができるものだろう。そうした応用で我々の生活は格段に豊かになるかもしれない。要は用い方の問題であり、それは結局は用いる個人の判断なのだが、精緻に作り上げられた仮想現実も、現実を精緻に観察することによって実現するものだということは忘れてはいけないことだと思う。
物事の重要性というものは、どのような価値観に基づいて見るかによって、軽重の順位が変わってくるものだが、本質とは一見無関係な些細なことが、全体の印象を大きく左右することもある。例えば「サッカーゲーム」というものを考えるとき、スタジアムの芝生や照明は「ゲーム」という本質とは無関係に見えるので多くの人にとっては意識の外にあるはずだ。ところが、そのような瑣末なことが、「サッカーゲーム」の商品としての完成度を左右する鍵を握っている。似たようなことは、我々の生活のなかに案外たくさんあるものなのかもしれない。その些細なことは習慣であったり人物であったりするのだろうが、改めて、普段は意にも留めないことや人を見直してみれば、生活や人生が大きく変わるということが、全く無いとは言えないだろう。
ところで、いまどきの若い人は、年長者と接することに抵抗が無いのだろうか。自分が彼らの年代の頃は社内の年長者を忌避することはあっても気軽に話しかけるというようなことは無かったように記憶している。3DSの件の直前は、エレベーターに別の若い同僚と乗り合わせてカジュアルな会話をしていた。彼らを見るともなしに見ていると、直属の上役と接するときはそれなりの緊張感があるようだ。おそらく、子供が学校の先生に対しては、なんのかんのといいながらも、権威を感じて敬意を表するが、用務員に対してはそうしたものを感じないのに似ているのではないだろうか。若い世代の同僚にとって、私は用務員のおじさんのようなものなのだろう。
余談だが、この3DSは会社の経費で落としたのだそうだ。
「これ、やばいっす。」
と言って差し出してきたのは任天堂の3DSだ。
「そんなにすごいの?」
と尋ねてみると、
「まぁ、みてくださいよ」
と言って、サッカーゲームを立ち上げてみせてくれた。3Dのゲームとかテレビが流行っているらしいということは知っているのだが、ゲーム機もテレビも持っていないし、関心もないので3Dというものがどういうものなのか知らなかった。果たして、その画面を見ると感心するほど画がきれいだ。小さな画面にもかかわらず、そこで展開されている世界が大きなものに感じられる。特に目を引いたのはスタジアムの芝生と照明の質感だ。人物やボールが浮き出ているかのように見えるであろうことは容易に想像がついたのだが、ゲームそのものとは無関係ともいえる背景をどれほど精緻にするかによって全体の印象が大きく変わるというのは今回のささやかな発見だ。
しかし、いくら精緻な映像を作り上げることができたとしても、作り物であることにかわりはない。精緻であるがゆえに、そこでの体験があたかも現実の体験であるかのような錯覚をもたらすとすれば、かえって人の生活を小さなものにしてしまうかもしれない。ゲームで培った技術やノウハウは勿論、医療とか行政とか交通関係者の訓練など様々な分野で応用ができるものだろう。そうした応用で我々の生活は格段に豊かになるかもしれない。要は用い方の問題であり、それは結局は用いる個人の判断なのだが、精緻に作り上げられた仮想現実も、現実を精緻に観察することによって実現するものだということは忘れてはいけないことだと思う。
物事の重要性というものは、どのような価値観に基づいて見るかによって、軽重の順位が変わってくるものだが、本質とは一見無関係な些細なことが、全体の印象を大きく左右することもある。例えば「サッカーゲーム」というものを考えるとき、スタジアムの芝生や照明は「ゲーム」という本質とは無関係に見えるので多くの人にとっては意識の外にあるはずだ。ところが、そのような瑣末なことが、「サッカーゲーム」の商品としての完成度を左右する鍵を握っている。似たようなことは、我々の生活のなかに案外たくさんあるものなのかもしれない。その些細なことは習慣であったり人物であったりするのだろうが、改めて、普段は意にも留めないことや人を見直してみれば、生活や人生が大きく変わるということが、全く無いとは言えないだろう。
ところで、いまどきの若い人は、年長者と接することに抵抗が無いのだろうか。自分が彼らの年代の頃は社内の年長者を忌避することはあっても気軽に話しかけるというようなことは無かったように記憶している。3DSの件の直前は、エレベーターに別の若い同僚と乗り合わせてカジュアルな会話をしていた。彼らを見るともなしに見ていると、直属の上役と接するときはそれなりの緊張感があるようだ。おそらく、子供が学校の先生に対しては、なんのかんのといいながらも、権威を感じて敬意を表するが、用務員に対してはそうしたものを感じないのに似ているのではないだろうか。若い世代の同僚にとって、私は用務員のおじさんのようなものなのだろう。
余談だが、この3DSは会社の経費で落としたのだそうだ。