昼過ぎに起床する。今日は一歩も住処の外に出なかった。アイロンがけやら、洗濯物の片付けやら、部屋の中の掃除と整理やらで、あっという間に短い一日が終わってしまった。
注文しておいたコーラン用書見台が、昨日、実家に届いた。改めて眺めてみると、作りは粗いが、確かに一枚の厚板に切れ込みを入れることで、折りたたみ式の書見台になっている。どこにどのような切れ込みを入れるかということについては、よく考えられていると思うのだが、商品として売ろうというのなら、何故、あと一手間を加えて見栄えや使い勝手を良くしようとしないのだろうか、というものだ。ちなみに、これはインド製。ウエッブを検索したとき、表記されているスペックがほぼ同じようなもので、トルコ製のものがあったのだが、インド製の約10倍の価格だったので、このインド製のほうを選んだ。今度の木工のときに先生に見ていただいて、これから制作する予定のマガジンラックに取り入れることのできる要素があれば反映させたいと考えている。
今日は日曜日なので、何気なくタイトルと「安息日」としたのだが、調べてみるといろいろややこしいので驚いた。そもそも「安息日」というのは旧約聖書で週の7日目のことだそうだ。これは土曜日である。ユダヤ教の戒律では、この日はなにもしてはいけないのだそうだ。日本語では「安息」などといかにもお気楽な雰囲気だが、積極的に何もしないというのは何かをしなければならないというのと同じくらい厳しいことだと思う。キリスト教の場合、当初は安息日に礼拝を行っていたそうなのだが、キリストの復活の日である日曜日を主日として、日曜日に礼拝を行うようになり、主日と安息日とが同一視されるようになったのだという。但し、キリスト教でも正教会のような東方系は土曜日が安息日だそうだ。イスラム教では、モハメットがメッカを脱出した金曜日が安息日になっている。何もしてはいけない、という意味での「安息日」はユダヤ教のもので、他は「安息」してもよいらしい。ただ、「安息日」と「休日」とは別のものであることには注意をしておく必要がありそうだ。
昔、アウグスブルクでホームステイをしていたときに聞いた話では、日曜日は家事もしてはいけないのだそうで、例えば、洗濯物を外に干しておくと町内会長のような立場の人から注意を受けるというのである。しかし、今はドイツでも共働きは一般的なので、家事はどうしても週末にまとめてしなければならない。そこで、余裕のある家庭では地下などに家事をするための部屋とか洗濯物を干すことができるような乾燥装置の付いた部屋を設けてあるのだそうだ。現に、私がお世話になっていたお宅の息子さんのご自宅にはそのような部屋があった。当時の留学先であったイギリスのマンチェスターでも、日曜は殆どの商店が休業しており、買い物があるときは、平日に学校が終わった後とか、土曜の午前中に商店の閉店時間を気にしながら慌しく済ませた思い出がある。食事も、日曜は寮の食堂が休みだったので、近所のケバブーハウスを利用していた。
人間の生理的な周期と暦というのは、どの程度関連があるものなのか、素朴に疑問に思う。暦というのは天体の周期であり、その天体のなかで生きている我々の身体も、その周期の影響を受けるのは自然なことであるように思う。しかし、天体の周期に安息というようなものはないだろう。「休日だからのんびりしたい」と言うとき、「休日」と「のんびり」の間には何の合理的関連は無いのである。物理的な法則に従って運動するものに、主観的な価値観を重ね合わせることで、無機的なものがあたかも有機的なものであるかのように見えてくることもあるが、それは幻想だ。ここで「母に捧げるバラード」歌詞の一節が甦る。
「人間働いて、働いて、働き抜いて、もう遊びたいとか、休みたいとか思うたら、一度でも思うたら、はよ死ね。それが人間ぞ。」
次の週末からは、もう少ししっかりとしていないといけない。生きている限り、「安息」など求めてはいけないのである。
注文しておいたコーラン用書見台が、昨日、実家に届いた。改めて眺めてみると、作りは粗いが、確かに一枚の厚板に切れ込みを入れることで、折りたたみ式の書見台になっている。どこにどのような切れ込みを入れるかということについては、よく考えられていると思うのだが、商品として売ろうというのなら、何故、あと一手間を加えて見栄えや使い勝手を良くしようとしないのだろうか、というものだ。ちなみに、これはインド製。ウエッブを検索したとき、表記されているスペックがほぼ同じようなもので、トルコ製のものがあったのだが、インド製の約10倍の価格だったので、このインド製のほうを選んだ。今度の木工のときに先生に見ていただいて、これから制作する予定のマガジンラックに取り入れることのできる要素があれば反映させたいと考えている。
今日は日曜日なので、何気なくタイトルと「安息日」としたのだが、調べてみるといろいろややこしいので驚いた。そもそも「安息日」というのは旧約聖書で週の7日目のことだそうだ。これは土曜日である。ユダヤ教の戒律では、この日はなにもしてはいけないのだそうだ。日本語では「安息」などといかにもお気楽な雰囲気だが、積極的に何もしないというのは何かをしなければならないというのと同じくらい厳しいことだと思う。キリスト教の場合、当初は安息日に礼拝を行っていたそうなのだが、キリストの復活の日である日曜日を主日として、日曜日に礼拝を行うようになり、主日と安息日とが同一視されるようになったのだという。但し、キリスト教でも正教会のような東方系は土曜日が安息日だそうだ。イスラム教では、モハメットがメッカを脱出した金曜日が安息日になっている。何もしてはいけない、という意味での「安息日」はユダヤ教のもので、他は「安息」してもよいらしい。ただ、「安息日」と「休日」とは別のものであることには注意をしておく必要がありそうだ。
昔、アウグスブルクでホームステイをしていたときに聞いた話では、日曜日は家事もしてはいけないのだそうで、例えば、洗濯物を外に干しておくと町内会長のような立場の人から注意を受けるというのである。しかし、今はドイツでも共働きは一般的なので、家事はどうしても週末にまとめてしなければならない。そこで、余裕のある家庭では地下などに家事をするための部屋とか洗濯物を干すことができるような乾燥装置の付いた部屋を設けてあるのだそうだ。現に、私がお世話になっていたお宅の息子さんのご自宅にはそのような部屋があった。当時の留学先であったイギリスのマンチェスターでも、日曜は殆どの商店が休業しており、買い物があるときは、平日に学校が終わった後とか、土曜の午前中に商店の閉店時間を気にしながら慌しく済ませた思い出がある。食事も、日曜は寮の食堂が休みだったので、近所のケバブーハウスを利用していた。
人間の生理的な周期と暦というのは、どの程度関連があるものなのか、素朴に疑問に思う。暦というのは天体の周期であり、その天体のなかで生きている我々の身体も、その周期の影響を受けるのは自然なことであるように思う。しかし、天体の周期に安息というようなものはないだろう。「休日だからのんびりしたい」と言うとき、「休日」と「のんびり」の間には何の合理的関連は無いのである。物理的な法則に従って運動するものに、主観的な価値観を重ね合わせることで、無機的なものがあたかも有機的なものであるかのように見えてくることもあるが、それは幻想だ。ここで「母に捧げるバラード」歌詞の一節が甦る。
「人間働いて、働いて、働き抜いて、もう遊びたいとか、休みたいとか思うたら、一度でも思うたら、はよ死ね。それが人間ぞ。」
次の週末からは、もう少ししっかりとしていないといけない。生きている限り、「安息」など求めてはいけないのである。