陶芸の帰り、十条に回ってFINDで一服する。ちょうど、FINDの前で店を開いている移動魚屋さんが親子魚教室の企画の相談でやって来た。魚の親子について何事かを語ろうというのではない。魚の調理について人間の親子に学んでもらおうというものだ。当初は今月19日の予定だったが、諸般の都合で来月に延期されたのだそうだ。参加費は材料費込みで1,000円前後の予定で、参加資格は親子とのこと。近日中にFINDのウエッブサイトに案内が掲載される。また、まだ先のことだが、8月にはコーヒー教室も開催されるという。尤も、8月なんてあっという間に来てしまうのだろう。
陶芸の個展をきっかけに、おかげさまでこの店の人たちには顔を覚えていただき、この店に出入りする人々のなかにも、今日の魚屋さんのように新たな知り合いが生まれている。「茶飲み友達」という言葉があるが、こうしてカフェで知り合う友人知人というのが本来の意味なのではないかと思うほど、コーヒーやカフェを軸にした人間関係が少しづつ広がっている。
以前、何かで読んだか聞いたことなのだが、人一人と知り合うことは図書館を丸ごと一つ手に入れるのと同じくらいの情報量を得ることなのだそうだ。少し大袈裟な比喩だが、感覚としてはそれくらいのものと同じかもしれない。言語化できる情報量ということなら、街のちょっとした図書館のほうが遥かに膨大なものを有しているだろうが、言語化不可能な感情面での受容といったものを考えると比喩ではなしに図書館以上のものがあるかもしれない。
普段の暮らしのなかで、素朴に人と知り合うということは決して容易なことではない。社会に出ると、どうしても生計を立てることに関連した人間関係にしか関心が向かなくなりがちであるし、生計を立てることに精一杯で気持ちの余裕が小さくなることも余計なことに手を出そうとする意欲を削ぐことになる。生計を立てるということが自分の生活そのものと認識できるようなものなら、その仕事に全身全霊を投じることは生きる喜びとなるだろうが、そういうものはそうあるものではない。なぜなら、我々の生活は市場原理の下で細分化専門化され、個人はそうした断片に全人的な関わりを持つことを強いられるからだ。個人の生活が細分化されてしまえば、異なる分野で生きる人との接点を見出すことが難しくなるし、同じ分野にある人との間にも全人的な関係は構築しにくくなるものだ。つまり、普通に生活をしていれば、人は自然に孤独に陥るようにできているのが現代という社会なのではないだろうか。
社会を構成することによって生活するようにできている人間が、社会を高度なものにすることによって却って孤立化していく。だからこそ、SNSが繁盛したり、流行を追うことで社会との同一化を図ろうとする動きが見られたりするのだろう。自我あるいは自己というものを世間に埋没させて安心しようとすることで、やはり却って孤独感に苛まれるようになる。そもそも自己というものは関係性の結節点だと思うのだが、つまり、それ自体に実体はないと思うのだが、無いものに存在感を求めることで様々な悲喜劇が生じてしまうのだろう。気持ちよく生きるということは、結局のところ、おいしいコーヒーや茶を飲みながら、関係性という虚構を味わうことなのではないだろうか。
陶芸の個展をきっかけに、おかげさまでこの店の人たちには顔を覚えていただき、この店に出入りする人々のなかにも、今日の魚屋さんのように新たな知り合いが生まれている。「茶飲み友達」という言葉があるが、こうしてカフェで知り合う友人知人というのが本来の意味なのではないかと思うほど、コーヒーやカフェを軸にした人間関係が少しづつ広がっている。
以前、何かで読んだか聞いたことなのだが、人一人と知り合うことは図書館を丸ごと一つ手に入れるのと同じくらいの情報量を得ることなのだそうだ。少し大袈裟な比喩だが、感覚としてはそれくらいのものと同じかもしれない。言語化できる情報量ということなら、街のちょっとした図書館のほうが遥かに膨大なものを有しているだろうが、言語化不可能な感情面での受容といったものを考えると比喩ではなしに図書館以上のものがあるかもしれない。
普段の暮らしのなかで、素朴に人と知り合うということは決して容易なことではない。社会に出ると、どうしても生計を立てることに関連した人間関係にしか関心が向かなくなりがちであるし、生計を立てることに精一杯で気持ちの余裕が小さくなることも余計なことに手を出そうとする意欲を削ぐことになる。生計を立てるということが自分の生活そのものと認識できるようなものなら、その仕事に全身全霊を投じることは生きる喜びとなるだろうが、そういうものはそうあるものではない。なぜなら、我々の生活は市場原理の下で細分化専門化され、個人はそうした断片に全人的な関わりを持つことを強いられるからだ。個人の生活が細分化されてしまえば、異なる分野で生きる人との接点を見出すことが難しくなるし、同じ分野にある人との間にも全人的な関係は構築しにくくなるものだ。つまり、普通に生活をしていれば、人は自然に孤独に陥るようにできているのが現代という社会なのではないだろうか。
社会を構成することによって生活するようにできている人間が、社会を高度なものにすることによって却って孤立化していく。だからこそ、SNSが繁盛したり、流行を追うことで社会との同一化を図ろうとする動きが見られたりするのだろう。自我あるいは自己というものを世間に埋没させて安心しようとすることで、やはり却って孤独感に苛まれるようになる。そもそも自己というものは関係性の結節点だと思うのだが、つまり、それ自体に実体はないと思うのだが、無いものに存在感を求めることで様々な悲喜劇が生じてしまうのだろう。気持ちよく生きるということは、結局のところ、おいしいコーヒーや茶を飲みながら、関係性という虚構を味わうことなのではないだろうか。