熊本熊的日常

日常生活についての雑記

大震災の6日後

2011年03月17日 | Weblog
いつもの木曜と同じように昼近くに起床。軽い食事をして、アイロンがけなどの家事を済ませる。

出勤は都営三田線を使うが、大規模停電の可能性があるとかで列車の本数を2割削減して運行中とのこと。出勤には支障なかったが、神保町と大手町の駅は普段よりも混雑している。

出勤してパソコンを立ち上げると米国大使館からのメールが何通か転送されていた。ひとつは福島第一原子力発電所から半径80kmから退避するようにとの勧告。もうひとつは日本在住の米国市民に対し、米国務省がアジアの避難場所への輸送を手配中との連絡。そのメールの記述で東京が原発から230km離れているということを知った。230kmが遠いのか近いのか、感じ方は人それぞれだろうが、東京を離れる人々が外国人を中心に続出しているのは事実らしい。自分が所属する部署にはいないが、他の部署では日本を離れた社員もいると聞いた。

現在、直面している当面の課題は、まず震災で破壊された生活基盤を回復することである。そのためにはライフラインを復活させなければならない。その復興作業の目下最大の障害は原発だ。まず、なによりもこれをなんとかしなければならない。現場では文字通り必死の作業が続いているはずだ。また、被災地域の瓦礫の撤去なども粛々と進行していることだろう。しかし、そうした復興への営みが被災地だけのことに留まっていては、目的は達しない。とりあえずの身の危険が遠のいた自分たちに何ができるだろうかと考えた。

首都圏の鉄道網は電力不足のために輸送力が削減されている。それが通勤などの人の流れを阻害して、長期化するようなら、経済活動にも支障をきたすことになるのは明らかだ。また、身近な交通の障害が物流全体への信頼感を損ねる結果、人々が闇雲に物資を溜め込む動きを引き起こしているのも確かだろう。保存可能な食品はもとより、ガソリン、トイレットペーパー、生理用品といったものまで不足気味になっている。しかも、そうした動きは全国的なものになり、なかには海外に飛び火しているところもあるらしい。

不安心理が働く限り、買い溜めを抑止することはできない。他人の不安を払拭するというのは至難なので、これは時間をかけて物資が潤沢にあることを納得してもらうよりほかにしょうがないだろう。本当に必要であるか否かを問わず闇雲に買い溜めに走るのはある種の狂気だ。一見したところ、街の風景は依然として平穏だが、買い溜めに象徴されるささやかな狂いが人々の生活のなかに芽吹いている。必要なものを必要なところに円滑に供給し、それによって可能な限り円滑に復興を図るには、被災地以外にいる人々も平穏を維持することではないかと思うのである。義捐金の寄付も有効な復興策であることには違いないだろうが、寄付をしながら買い溜めもするというのでは、復興に寄与していることにはならないだろう。

自分の生活のなかの狂いをひとつひとつ是正していくということに誰もが取り組むことで、全体としての狂いがなくなり、それだけ復興への資源集中を図ることができるようになるのではないだろうか。身の回りを改めて点検し、不要不急の電気の使用を控えるとか、同じことだが厚着をするなどして暖房をできるだけ控えるといったことなら、誰でもできることだろう。平均的な日本人は必要以上にカロリーを摂取している。残飯を発生させているなら、そうしたものを出さない程度に食事を慎むことは、間抜けなダイエットよりも健康にも社会にも役立つはずだ。ひとりひとりが、いつもより少しだけ忍耐の程度を上げることを積み重ねれば、それは大きな効果につながると思う。

さらに、そうした生活のなかの過剰を改めることが習慣として定着すれば、この国は以前にも増して高効率な経済を持つことになるのではないだろうか。それが少子高齢化で懸念される活力低下への対策としても機能するのではないだろうか。先々のことはともかくとして、今は我々ひとりひとりが日常生活のなかでエネルギー消費を抑制する工夫をすることが何よりの復興策だと思う。