熊本熊的日常

日常生活についての雑記

赤坂にて

2011年03月26日 | Weblog
子供と落語を聴きにでかけた。当初の予定では、今日は茶の稽古のはずだった。それが23日に中止との連絡を受けたので、子供に空いているかどうか連絡をしてみたら空いているというので会うことになった。通常なら茶の稽古は第二土曜なのだが、稽古場所であるギャラリーの都合で今月は26日ということになっていた。茶の予定変更以前に落語のチケットを入手していたので、チケットのほうを誰かに譲ろうとしたのだが、貰い手が見つからずにいた。結局、落語のチケットは無駄にならずに済んだ。子供と一緒に落語に出かけることが決まると、昼をどこで食べようかと思い始めた。落語の会場が草月会館なので、昼は赤坂界隈がいいだろうと思い、なぜか滅多に行ったことのない維新號が頭に浮かんだ。子供に中華でいいかと尋ねたら、いいという返事だったので、24日に電話をして11時半に予約を入れた。そして今日を迎えたのである。

落語は「柳家三三で北村薫。」の昼の部だ。子供とは山手線の駅ホームで待ち合わせて、新宿で中央線に乗り換え、四谷で丸の内線に乗り換えて赤坂見附で下車する。まずは維新號で腹ごしらえ。11時半の開店と同時に入って、飲茶を頼んだのだが、コースの最後のデザートを食べ終えたところで開演10分前。勘定を済ませて店を出たところで、客を運んできたタクシーに出くわしたので、そのタクシーを拾う。会場の草月会館には開演3分前に到着。トイレに入って席に着いたら午後1時の開演を少し回っていたが、開演が数分遅れたので問題はなかった。終演後、虎屋であんみつを食べてから、子供を家の最寄り駅まで送る。その後、実家に寄り、両親と食卓を囲んで、巣鴨の住処に戻ったのは夜10時近い頃だった。

維新號を訪れるのは何年ぶりだろうか。以前の勤め先で、社内の会食というとこの店を使うことの多いところがあった。子供には旨いものを食べて欲しいという思いがあるので、一緒に食事をするときは自分が訪れたことのある店のなかで、自分が旨い店だと感じたところを選ぶようにしている。あくまでも旨いと思うか否かだけが基準なので敷居の高さは関係ない。今年に入ってから訪れたのは、1月が宮益坂のトルコ料理店アナトリア、先月は青山のシェ・ピエールだ。今日は、昼時でもあったので、飲茶のコースにした。どの皿も外れがなく、好き嫌いが激しい子供も残さずに食べた。好き嫌いがあっても、旨いものは口に入るものなのである。だから旨い店に連れていくことで、いろいろな料理や食材の味を感じて欲しいと思っている。大切なことは旨いという感覚を体感すること、同じ食材が料理によって違ったものになることを知ることである。もっと言えば、ひとつのことが向き合い方や処理の仕方を変えることで、どのようにでも変化する可能性を持っていること、物事の答えというものがひとつだけではないということを体感して欲しいと思っている。

落語は北村薫の小説<円紫さんと私>シリーズをモチーフにした新作「砂糖合戦」、中入りを挟んで、「砂糖合戦」のなかに台詞として登場する古典「強情灸」、最後に三三と北村薫との対談、という構成だ。先日、やはり子供と一緒に家禄が宮部みゆきの「我らが隣人の犯罪」を落語として演じるのを聴いたが、近頃はこういうのが流行なのだろうか。「砂糖合戦」のなかで「円紫師匠」が語っているように、古典落語に登場する用語のなかには今は使われなくなってしまったものが少なくない。それでも多くの古典がいまでも口演され続けているのは、噺というものが言語化されたものだけで構成されているわけではないということの証左だろう。とはいえ、芸能が演じ手と観客とによって成り立つ以上、双方が寄って立つところの社会の変化を芸のなかに反映させる試みを継続しないことには、その芸能自体が存在しえなくなってしまう。時には確立している形式を根底から変えてみることで、どうしても変えることのできない普遍性を発見することもあるだろう。変化は必ずしも変えることを意味するのではなく、変えないこと、変えるべきではないことを浮き彫りにもする。落語は、果たして、座布団の上で噺を語ることにその本質があるのか、あるいは、そうした形式に意味は無いのか。そもそも落語とは何なのか。

このところ自分のなかで落語への関心が目に見えて低下していたのだが、今日の落語会を聴いて、それが再び高まってきた。自分が気に入る噺家というのは、そう容易に生まれるものではないが、根気強く楽しい出会いを求め続けたいものである。

落語がはねてから、赤坂見附駅に向かう途中で虎屋に入った。ここの羊羹は美味しいと思うので、手土産にはたまに利用している。今日は地下の茶寮であんみつと抹茶をいただいた。抹茶のほうは自分で点てたほうが美味しいと思ったが、あんみつは流石に店のブランドに恥じぬものだ。あんみつのように複数の構成要素で成り立つものは、どれひとつとして粗末なものがあっては全体の満足度が毀損されてしまう。餡は勿論のこと、寒天も豆も求肥も、全てが美味しくなければならない。私は寒天に感心したが、子供は求肥が良かったという。いずれにしてもおいしいあんみつだった。