熊本熊的日常

日常生活についての雑記

寒中見舞い

2011年03月09日 | Weblog
寒中見舞いの葉書が届いた。「寒中」とは小寒から立春あたりのことを指すらしいが、寒い日が続いていると、今時分に届いても、「ん?」とは思うが、「ま、さぶいしねぇ」とも思う。注目すべきは葉書の送り主だ。およそ葉書や手紙など書きそうにないと思っていた人から届くと、天変地異の前兆なのではないかと妙に不安を覚える。

私自身は悪筆のくせに、手紙の類を書くことが好きだ。以前にも年賀状の話題で書いた記憶があるのだが、手書きのものには文字とか行間といったものを超えた何事かを包含しているかのような印象を受けるのである。ある程度の年齢を超えて、そうした感覚が強くなり、近頃では年賀状や暑中見舞いは全て手書きにしている。日常生活のなかでは、葉書といえども手で書くことのできる量には限界があるので、その限界の範囲内でしかそうした挨拶状は書かない。印刷の御座なりのものには、形を整えさえすればいいというような邪険な気持ちが見え隠れしているように感じてしまうので、そういうものは自分からは出さないようにしている。書くか書かないか、書くならきちんと書く、というようなことで、自分自身の気持ちや生活を整理しているつもりだ。

今年は普段の生活のなかに葉書を書くという行為をなるべく多く盛り込もうと考えて、街でみつけた葉書や葉書大のカードなどをたまに買ってみたり、気の利いたデザインの切手を買ったりしているのだが、使う機会に恵まれていない。3月も半ばを迎えようとしているのに、書いて投函した葉書は5通程度のものだ。

メールは、特に携帯電話のメールには、思いつきの垂れ流しのようで、だらしの無い印象を受ける。事務連絡には無駄が無い上に記録が残るので便利だが、私信にはなるべくなら忌避したい通信手段だ。紙に書くという行為は、書く前に内容を整理しないことには書くことができない。何事かを思いつき、その考えを整理して要点をまとめ、文字に表す、という一連の作業のなかで思考も深くなるように感じられる。だから、手紙の類には、書かれた文字や行間だけでなく、そこに至る過程や文字という最終形にする際の緊張感のようなものも含めた書き手その人の何かが残るのではないだろうか。

あとメールと郵便の大きな違いは、遣り取りの間合いだ。不思議なもので、メールは出して短時間のうちに返信がないと不安を覚えたりするものだが、郵便はそういうことがない。それでも私信を送れば、その反応が気になるものだ。その反応が返ってくる間合いが、郵便は日常生活のリズムのようなものを乱すことが少ない。

そんなわけで、なるべく手紙や葉書を書く機会を増やしたいと改めて思うのである。とりわけ、自分にとって大切だと感じているような相手には、そういう気持ちをきちんと伝えることができるように心がけたいものである。時節外れの寒中見舞いに何を返すか、というようなことを考えるのも楽しいことだ。

ところで、今日は木工の作業中に眩暈のようなものを感じた。ちょうど接着剤を扱っていたので、その所為かもしれないと、そのときは思った。後になって、ちょうどその頃に東北地方の太平洋側で大きな地震があり、東京都東村山市でさえも震度2の揺れだったということを知った。このところ地震の報道が多いように感じているのだが、被害に遭われた方には、この場を借りてお見舞い申し上げる。