あたふたとした一週間が終わり、三連休の初日を迎えた。東京でも余震は続いているが、より大きな問題としては原発事故に伴う電力不足と放射能汚染だ。電力不足の原因が発電所の被災にあり、しかも被災した発電所が原子力発電所で、最悪の場合は炉心溶融を覚悟しなければならない状況にあるということは、自分自身の生活基盤を失う懸念があるということだ。地震による被災がなくとも、原発の事故で生活を継続することが困難な状況に陥る可能性がある。
そこで、自分の生活を改めて見直してみた。既に50年近く生きてきたので、いつ終わってもよいと腹を括る。そして、これまで心に引っかかっていたことのなかで、すぐにでも解消できることはできる限り解消してしまうことにした。おかしなもので、いざ引っかかりを挙げてみれば、どれもしょうもないものばかりだ。それはとりもなおさず私自身がしょうもない人間であるからに他ならない。たいした奴ではないのはわかりきったことではあったが、あらためてその現実を突きつけられれば苦笑まじりに受け容れるよりほかにどうしょうもない。
まず考えたのは太陽の塔を見にいくことだ。大阪で万国博覧会が開催されたのは1970年。私は小学校2年生だった。当時、母が製本工場にパートに出ていた。今でも操業しているその製本会社では文学全集や百科事典といったものの製本を手がけており、乱丁や落丁のそうした書籍が家の中に転がっていた。そのなかに万博のカタログもあったのである。時は日本の高度経済成長真っ只中。カラー写真がふんだんに使われた万博のカタログを観て、実物が見たいと思うのは自然なことではないだろうか。カタログを見ても見なくても、当時は日本中が万博に熱中していた。3月14日から9月13日までの183日間の会期中、6,400万人の入場者を集めたが、この数字は万国博の入場者数として、上海万博まで史上最多記録だったそうだ。テレビのニュースなどで報じられる映像はパビリオン前の行列や入場ゲートの混雑などで、そうした場所にはとうとう連れていってはもらえなかった。会場跡地は周知の通り万博記念公園として整備され、そのなかには太陽の塔と鉄鋼館が残されている。「芸術新潮」の3月号が岡本太郎の特集で、その記事を読んで改めて万博会場を訪れたいとの思いを強くした。また、公園内には国立民族学博物館が1977年に開館している。これもまた是非観たいと思っていたもののひとつだ。
今日は午前中は家事をして、午後に橙灯とFINDに寄ってから実家へ行く。巣鴨の住処から小石川の橙灯までは徒歩。自分のなかで何か事が決まったときというのは空が明るく感じられるような気がする。昨日までの寒さが和らぎ、春らしい陽気になった所為かもしれないが、外に出ると何とはなしに清々しさを感じる。ふと、留学中に学位取得がほぼ見えたときの空を思い出した。
橙灯には先客として町内会長がおられた。話題は当然に震災関連に流れ勝ちになる。報道で外国人が日本を脱出する様子をしばしば目にするが、都内でも飲食店などで働く外国人が帰国してしまって人手が足りなくなり、営業を断念するところが出ているのだそうだ。今や全国的に買い溜めの動きが顕著になっているが、その一方で首都圏では外出を控える動きも一層強まり、外食、殊に個人事業の飲食店は閑古鳥が鳴いているところが多くなっているという。本当に必要かどうかもわからないものを無闇に買い込むよりは、家庭内の生活必需品の在庫を点検しつつ空いている外食店を利用するほうが、私のような一人暮らしにとっては賢明な選択ではないかとの助言もいただいた。確かに生活必需品の備蓄を図るには、新たに調達するという方法は当然にあるのだが、既存の在庫を温存するという方法もある。ただ、巣鴨の住処周辺にはこれと言った飲食店が無い。地蔵通りは観光地のようなところなので飲食店が多くても一見相手のようなところが目立ち、繰り返し訪れたいと思う店はそれほど無い。この機にまだ利用したことのない店に訪れて、新規開拓しておくのも一考かもしれない。
一時間半ほど橙灯で話し込んだ後、十条のFINDを訪れる。店内が満席だったので、外のテラス席でザンビアをいただく。お忙しそうだったので、あまり岩崎さんとは話す時間が無かったが、それでもスープボウルまたはスープ皿を夏ぐらいまでに6つ欲しいが、作ってみてもらえないかとの相談をいただく。嬉しいことだ。
実家でもスーパーに商品が無いという話題が出る。不思議なことに個人商店は客が減って困っているのだそうだ。実家が今の場所になったのは、私が小学校6年生の秋のことだ。今やすっかり土地に根をおろし、両親が日常生活のなかで関わる人々のなかには、そうした個人商店主もある。私もそうした関係性の恩恵にあずかり、秋から春先にかけの時期ならば、毎週末に実家を訪れる折には、近所の八百屋さんから届けられる大きな焼き芋に舌鼓を打つのが習慣と化している。この焼き芋は八百屋さんのご好意、つまり無料なのである。有り難いことだ。
一旦、巣鴨の住処に戻ってシャワーを浴びたり身支度をしたりしてから新宿へ行く。23時20分発の夜行バスで大阪へ向かう。
そこで、自分の生活を改めて見直してみた。既に50年近く生きてきたので、いつ終わってもよいと腹を括る。そして、これまで心に引っかかっていたことのなかで、すぐにでも解消できることはできる限り解消してしまうことにした。おかしなもので、いざ引っかかりを挙げてみれば、どれもしょうもないものばかりだ。それはとりもなおさず私自身がしょうもない人間であるからに他ならない。たいした奴ではないのはわかりきったことではあったが、あらためてその現実を突きつけられれば苦笑まじりに受け容れるよりほかにどうしょうもない。
まず考えたのは太陽の塔を見にいくことだ。大阪で万国博覧会が開催されたのは1970年。私は小学校2年生だった。当時、母が製本工場にパートに出ていた。今でも操業しているその製本会社では文学全集や百科事典といったものの製本を手がけており、乱丁や落丁のそうした書籍が家の中に転がっていた。そのなかに万博のカタログもあったのである。時は日本の高度経済成長真っ只中。カラー写真がふんだんに使われた万博のカタログを観て、実物が見たいと思うのは自然なことではないだろうか。カタログを見ても見なくても、当時は日本中が万博に熱中していた。3月14日から9月13日までの183日間の会期中、6,400万人の入場者を集めたが、この数字は万国博の入場者数として、上海万博まで史上最多記録だったそうだ。テレビのニュースなどで報じられる映像はパビリオン前の行列や入場ゲートの混雑などで、そうした場所にはとうとう連れていってはもらえなかった。会場跡地は周知の通り万博記念公園として整備され、そのなかには太陽の塔と鉄鋼館が残されている。「芸術新潮」の3月号が岡本太郎の特集で、その記事を読んで改めて万博会場を訪れたいとの思いを強くした。また、公園内には国立民族学博物館が1977年に開館している。これもまた是非観たいと思っていたもののひとつだ。
今日は午前中は家事をして、午後に橙灯とFINDに寄ってから実家へ行く。巣鴨の住処から小石川の橙灯までは徒歩。自分のなかで何か事が決まったときというのは空が明るく感じられるような気がする。昨日までの寒さが和らぎ、春らしい陽気になった所為かもしれないが、外に出ると何とはなしに清々しさを感じる。ふと、留学中に学位取得がほぼ見えたときの空を思い出した。
橙灯には先客として町内会長がおられた。話題は当然に震災関連に流れ勝ちになる。報道で外国人が日本を脱出する様子をしばしば目にするが、都内でも飲食店などで働く外国人が帰国してしまって人手が足りなくなり、営業を断念するところが出ているのだそうだ。今や全国的に買い溜めの動きが顕著になっているが、その一方で首都圏では外出を控える動きも一層強まり、外食、殊に個人事業の飲食店は閑古鳥が鳴いているところが多くなっているという。本当に必要かどうかもわからないものを無闇に買い込むよりは、家庭内の生活必需品の在庫を点検しつつ空いている外食店を利用するほうが、私のような一人暮らしにとっては賢明な選択ではないかとの助言もいただいた。確かに生活必需品の備蓄を図るには、新たに調達するという方法は当然にあるのだが、既存の在庫を温存するという方法もある。ただ、巣鴨の住処周辺にはこれと言った飲食店が無い。地蔵通りは観光地のようなところなので飲食店が多くても一見相手のようなところが目立ち、繰り返し訪れたいと思う店はそれほど無い。この機にまだ利用したことのない店に訪れて、新規開拓しておくのも一考かもしれない。
一時間半ほど橙灯で話し込んだ後、十条のFINDを訪れる。店内が満席だったので、外のテラス席でザンビアをいただく。お忙しそうだったので、あまり岩崎さんとは話す時間が無かったが、それでもスープボウルまたはスープ皿を夏ぐらいまでに6つ欲しいが、作ってみてもらえないかとの相談をいただく。嬉しいことだ。
実家でもスーパーに商品が無いという話題が出る。不思議なことに個人商店は客が減って困っているのだそうだ。実家が今の場所になったのは、私が小学校6年生の秋のことだ。今やすっかり土地に根をおろし、両親が日常生活のなかで関わる人々のなかには、そうした個人商店主もある。私もそうした関係性の恩恵にあずかり、秋から春先にかけの時期ならば、毎週末に実家を訪れる折には、近所の八百屋さんから届けられる大きな焼き芋に舌鼓を打つのが習慣と化している。この焼き芋は八百屋さんのご好意、つまり無料なのである。有り難いことだ。
一旦、巣鴨の住処に戻ってシャワーを浴びたり身支度をしたりしてから新宿へ行く。23時20分発の夜行バスで大阪へ向かう。