熊本熊的日常

日常生活についての雑記

天啓

2011年03月20日 | Weblog
バスの中から朝日に照らされた太陽の塔が見えた。「おぉ」と思う。バスは定刻よりも10分ほど早く午前7時半頃に大阪駅に到着した。まずは大阪駅構内で腹ごしらえをする。

最初の目的地は高津宮。落語「高津の富」の舞台だ。大阪駅から地下通路で地下鉄梅田駅に出て御堂筋線に乗る。なんばで千日前線に乗り換え、谷町九丁目で下車。そこから少し日本橋方面へ戻ったところに高津宮の鳥居が立っていた。日曜の朝という所為もあるのだろうが、人通りは疎らだ。鳥居をくぐり、参堂を本殿へ向かう。ちょうど本殿への石段を登っているところで太鼓の音が聞えてきた。石段を登り詰めると、本殿内部で巫女さんや宮司さんがなにやらお勤めの様子。手水で手を清め、お勤めの邪魔にならぬよう、賽銭箱の前で静かに拍手を打ち、礼をする。賽銭はあげない。

落語での描写から想像していたよりも小規模のお宮だ。境内のいたるところに何やら言われのありそうな寄進物や碑の類がある。本殿裏側はちょっとした庭園で、しだれ梅が花をつけていた。

高津宮を後にして日本橋へ向かう。途中、国立文楽劇場の前を通る。朝9時頃だが、劇場前には少し行列がある。日本橋から地下鉄堺筋線に乗り、相互乗り入れをしている阪急千里線の山田駅で下車。大阪モノレールに乗り換える。山田の次が万博中央公園。朝方は晴れていたのだが、雲行きが怪しくなっている。駅を出たところから、バスから見た太陽の塔が見える。

この太陽の塔の実物を見てみたかったのである。伏線としては昨日書いたように、子供の頃に見たくても見ることのできなかった万博への想いがある。そこに火をつけたのが、「芸術新潮」の岡本太郎特集だ。特にQA形式で岡本太郎記念館館長の平野暁臣氏が語っていた万博のテーマに関する一節が好奇心を強く刺激した。以下その引用である。

「Q35 大阪万博のテーマ展示に込めたメッセージとは?
平野 テーマプロデューサーとして太郎がやるべき仕事は、万博のテーマ「人類の進歩と調和」を展示という形式で説明することでした。でも彼はこのテーマが気に入らなかった。人類は進歩なんかしていない。なにが進歩だ。縄文の凄さを見ろ。今の人間にラスコーの壁画が描けるか、と言ってね。そこで展示の大半を塔内部と地下に埋め、およそ「進歩と調和」とは正反対の、「人の根源」を考える展示をつくったんです。命、遺伝子、いのり、混沌、まつり、闘い……人間の誇りと尊厳を静かに語る空間は、万博には似つかわしくない芸術的・幻想的なものでした。太郎は予算とスペースのほとんどを旧石器時代までの話に費やしています。はっきり言って異常です。だって万博は「夢の未来」を語り合う場ですからね。でも太郎の展示はまったく逆。「未来にすがるな」と言っている。そこに太郎が込めたのは「血の中に刻まれた原体験を思い出せ! 人間の誇りと尊厳を取り戻せ!」というメッセージだったと、ぼくは考えています。

Q36 「万博を祭りにしたい」と繰り返し言っていたそうですね。
平野 万博という「啓蒙」の場を、精神を解放して己を取り戻す「祭り」に変える。それが太郎の願いでした。だから会場のド真ん中に《太陽の塔》を突き立てた。アレ、万博の運営にはまったく必要のないものですからね。なにしろなんのために立っているのかさえわからないんだから。でも祭りの本質は蕩尽。よし、壮大な無駄使いをしてやるぞ。そう考えたのでしょう。《太陽の塔》は祭りの司祭なんです。一方、途上国への視線も明快。「新しく独立し、歩みはじめたばかりのアジア・アフリカの諸国。近代工業の面では何も持たない。そんな国の人々が会場に来て、何か肩身のせまい思いをするような、富や科学工業の誇りでは卑しい。逆に彼らの存在感をふくれあがらせ、祭りにとけ込ませる、人間的な誇りの場でなければならない」(小誌1968年6月号)。万博を祭りに変えることで、産業力で序列をつくる悪しきモダニズムを蹴飛ばしたいと考えていたのです。」(「芸術新潮」2011年3月号 新潮社 46-47頁)

少し長くなったが、この部分を読んだときにどうしても太陽の塔が見たくなってしまったのである。朝方は晴れ渡っていた空にいつしか雲が敷き詰められていたので、朝にバスのなかから初めて見た時ほどに感じるものはなかったものの、十分感動的であるには違いなかった。日本の経済成長と自分の生理的成長とが一致しているから余計にそう感じるのかもしれないが、「進歩」も「調和」も幻想で、人は10年や100年というような短い時間では何も変わったりしないものだとの思いを、太陽の塔だけが残されている万博跡地に立って新たにするのである。

万博公園で忘れてはいけないのは国立民族学博物館だ。初代館長は梅棹忠夫。高校生の頃、岩波新書の「知的生産の技術」を読んで、自分もカードシステムを作ろうとして、タイプライターまで買い込んで、何度か挫折と再挑戦を繰り返した後、ついに何も残らなかった。不思議なもので、それでもそうした挫折がとても楽しい経験であったという印象が残っている。それはおそらく、「知的生産の技術」という本を通じて、梅棹その人の何物かを感じたからなのかもしれない。彼の著作で読んだことがあるのは、この一冊だけなのだが、今回、国立民族学博物館で開催中の「ウメサオタダオ展」を観ても、なぜか知っていることが多い。それだけこの人の仕事が大きなものだったということもあるだろうし、「知的生産の技術」が単なるハウツー本とは一線を画した思想書に近い内容の深さを持つ所為もあるのかもしれない。

民族学の核はフィールドワークだ。自ら文化や文明を体験することによって思考する学問である。梅棹はその第一人者だった。体験に基づいた思考、というと当然のことのように聞えるかもしれないが、我々がいかに風聞に影響されるかは今回の震災後の狂騒を見れば明らかなことだ。「講釈師 見てきたような 嘘を言い」という有名な川柳があるが、世の中は講釈師だらけなのである。そういう世の中だからこそ、体験とそこから導き出された経験に拠ることに確信を持って自分の思考を深めることができたのかもしれない。そういう人の書いたり話したりすることがどれほど力強く響くものか、「ウメサオタダオ展」を観て実感できた。

不幸にして私は思考力が薄弱なので、今日こうして民博を訪れて感じたことを上手く文章に表現できないのだが、天の導きがあってここに来たと感じられるほどに満足している。3月11日に感じた数分間の揺れだけでも、自分の人生のなかで最大の地震なのだが、それに続く原発事故や被災後の様々な混乱は、震災からの復興の困難を感じさせ、暗澹たる気分に流れ勝ちになっていた。近い将来に最期を迎えることを覚悟して、気持ちの整理をするためにこうして大阪にまでやって来た。しかし、民博で梅棹忠夫の館長退任記念講演という次期館長の佐々木高明との対談のビデオを観て、天啓のようなものを感じた。これから本格化するであろう震災の大小様々な危機的事態とそれが自分の生活にもたらすかもしれない災厄は、自分の人生にとって千載一遇のことに転換できるものなのかもしれないと思い始めたのである。今の段階で具体的に何がどうということはないのだが、鍵になるのは「結果を出すこと」と「あきらめないこと」のふたつだとの思いを強くした。

午前10時頃に万博公園に着き、民博内の食堂での昼食を挟んで、午後3時近くまで滞在したのだが、とてもそれくらいの時間では満足に見て回ることはできない。名古屋で大事な面会を控えていたこともあり、近日中に再訪することにして民博を後にした。

万博中央公園からモノレールに乗り、千里中央で下車。地下鉄御堂筋線に乗って新大阪へ出る。新大阪から新幹線に乗り名古屋で下車。上りの新幹線は空いていた。