一息ついた。3月も終わろうというのに2月中旬並みと言われる寒さが続いていて、辛かった。東北ではもっと寒いところで人々が復興のために獅子奮迅の働きをしているのだから、「辛かった」などと言っている場合ではないのだが、正直なところ、辛かった。被災者と何事かを共有したいという想いと節電への協力を兼ねて、あの地震以来、暖房を断っている。毎日、寒いと思い、その度に部屋の寒暖計を見て、悪寒がしているのではなくて本当に寒いのだということを確認しながら暮らしていた。それが、今日、久しぶりに東京は平年並みの気温になった。住処を出て外気に触れた瞬間、春はいいなぁ、と思った。
先日、子供と虎屋であんみつを食べながら今回の地震とその後のことについて語り合った。意見の一致を見たのは「特別なことはしない」ということだ。これはどういうことかというと、ひとりひとりが日常の平穏を回復させることで、社会全体の平穏を取り戻すことができるのではないかということだ。無闇に買い溜めをしたり、行き先のわからない義捐金に協力をしたりというような余計なことに関わりあいを持たず、ひとりひとりが自分のできることを粛々と積み重ねることが、平穏な日常を取り戻す最善の方策だと思うのである。仕事を持っていれば、その仕事に精を出して給金をいただく。そこから自動的に税金が徴収されるはずなので、それが巡りめぐって復興の足しになる。普通に生活をしていれば、少なからずの消費財を購入する。そこで自動的に消費税が徴収されている。税、そこに象徴されている国家というシステムは、それを構成する個別項目は無機的な制度であり、その硬直性が「お役所仕事」などと非難されたりもするのだが、全体としては有機体のように見える。どこかに問題を生じれば、それを修復しようという動きが自然に発生するような仕組みになっていて、あたかも自然治癒に向かっているかのように動くものだと思う。また、そうでなくてはその社会を「国家」とは呼ぶことができない。
しかし、例えば人が大怪我をすれば、手術が必要になったり、輸血が必要になったり、なによりも手術のための医師と施設が必要になったりする。そうなれば、身体システムはその怪我を処置すべく、怪我とは直接関係の無い部位も何がしかの負担を強いるものだろう。身体そのものに余計な負荷を与えないように、とりあえずは安静にしていなければならない。そうすることで活動が停滞して、筋肉が衰えたり、疲労を感じやすくなったりもするだろう。震災から3週間目に入り、今はそれに似た状況ではないかと思うのである。つまり、怪我の消毒や、まだ取り除かれていない怪我の原因物を除去したりしている最中だ。そういう期間においては、怪我とは直接関連していないところも、何がしかの不自由は甘受しなければ、怪我は治らない。「特別なことはしない」が、我慢できる程度の不自由はあるていど積極的に受け入れるということもしないと、怪我の治りが遅くなってしまう。
やがて、傷口がふさがり、リハビリが必要な時期に入る。そのときは、怪我で失った全身の均衡を慎重に回復させながら、健康であった頃の活動ができるように、時には負荷をかけて訓練しなければならないことも出てくるだろう。そうやって健康を回復するより他に、何ができるだろうか。
被災地のことは何も知らないので、とやかく書くことはできないが、東京で暮らし、ネットで配信されている報道を見聞きする限り、個々の怪我を処置するそれぞれの専門医は活発に動いているようだが、全体の状況を把握して適切に全体の治療方針を立てるはずの医師が不在のように感じられる。責任ある立場の医師が不在でも、我々はそれぞれの生活を生きていかなければならない。次善の策としては自然治癒に期待するということではないか。それは結局のところ、我々ひとりひとりがそれぞれの平穏を取り戻すべく努力するということだと、私たち親子は語り合った。
先日、子供と虎屋であんみつを食べながら今回の地震とその後のことについて語り合った。意見の一致を見たのは「特別なことはしない」ということだ。これはどういうことかというと、ひとりひとりが日常の平穏を回復させることで、社会全体の平穏を取り戻すことができるのではないかということだ。無闇に買い溜めをしたり、行き先のわからない義捐金に協力をしたりというような余計なことに関わりあいを持たず、ひとりひとりが自分のできることを粛々と積み重ねることが、平穏な日常を取り戻す最善の方策だと思うのである。仕事を持っていれば、その仕事に精を出して給金をいただく。そこから自動的に税金が徴収されるはずなので、それが巡りめぐって復興の足しになる。普通に生活をしていれば、少なからずの消費財を購入する。そこで自動的に消費税が徴収されている。税、そこに象徴されている国家というシステムは、それを構成する個別項目は無機的な制度であり、その硬直性が「お役所仕事」などと非難されたりもするのだが、全体としては有機体のように見える。どこかに問題を生じれば、それを修復しようという動きが自然に発生するような仕組みになっていて、あたかも自然治癒に向かっているかのように動くものだと思う。また、そうでなくてはその社会を「国家」とは呼ぶことができない。
しかし、例えば人が大怪我をすれば、手術が必要になったり、輸血が必要になったり、なによりも手術のための医師と施設が必要になったりする。そうなれば、身体システムはその怪我を処置すべく、怪我とは直接関係の無い部位も何がしかの負担を強いるものだろう。身体そのものに余計な負荷を与えないように、とりあえずは安静にしていなければならない。そうすることで活動が停滞して、筋肉が衰えたり、疲労を感じやすくなったりもするだろう。震災から3週間目に入り、今はそれに似た状況ではないかと思うのである。つまり、怪我の消毒や、まだ取り除かれていない怪我の原因物を除去したりしている最中だ。そういう期間においては、怪我とは直接関連していないところも、何がしかの不自由は甘受しなければ、怪我は治らない。「特別なことはしない」が、我慢できる程度の不自由はあるていど積極的に受け入れるということもしないと、怪我の治りが遅くなってしまう。
やがて、傷口がふさがり、リハビリが必要な時期に入る。そのときは、怪我で失った全身の均衡を慎重に回復させながら、健康であった頃の活動ができるように、時には負荷をかけて訓練しなければならないことも出てくるだろう。そうやって健康を回復するより他に、何ができるだろうか。
被災地のことは何も知らないので、とやかく書くことはできないが、東京で暮らし、ネットで配信されている報道を見聞きする限り、個々の怪我を処置するそれぞれの専門医は活発に動いているようだが、全体の状況を把握して適切に全体の治療方針を立てるはずの医師が不在のように感じられる。責任ある立場の医師が不在でも、我々はそれぞれの生活を生きていかなければならない。次善の策としては自然治癒に期待するということではないか。それは結局のところ、我々ひとりひとりがそれぞれの平穏を取り戻すべく努力するということだと、私たち親子は語り合った。