偶然、ウエッジウッドの職人技を見学する機会に恵まれた。上手な人の実技を観ることに勝る勉強はない。会場に用意されていた轆轤は、私が陶芸教室で使っているものと同じだったが、実演者は「実際に仕事で使っているのはもっと大きく、回転速度も速いものだ」と言っていた。確かに、店頭に並んでいるようなシャープな形状を作るにはかなり高速で回転させないとできない。私が使っている轆轤は最大分速250回転で、無段変速のできるものだが、普段はその能力の半分以下の回転数で使っている。
さて、実技のほうはジャスパー・ウエアの制作だ。これはウエッジウッドの代名詞のようなもので、土は同社独自のものである。陶土と磁土の中間のようなもので、stone wareの一種だ。会場の通訳は「石器」と訳していたが、これは正確ではない。確かに辞書には「石器」という訳語も記載されているが、日本語の「石器」はstone toolを指すのが一般的だろう。無理に「半陶器」などという訳語を使うのを見かけたこともあるが、「ストーン・ウエア」としておいたほうが誤解が少ないように思う。
土の密度がどれほどか、見た目にはわからなかったが、おそらく1kg弱くらいの土塊をグローブのような手が挽いていく。何度か土殺しをして、解説をしながら、まずは筒状に挽く、そこから口をすぼめてあっという間に瓶が出来上がる。最後に下のほうをナイフで整形して轆轤を止め、ワイヤで切り離す。その巨大な身体からは想像できないような繊細で流れるような動作で、小さな均整のとれた美しい形の瓶が作り出されるのは、まさに職人技だ。このまま焼成しても立派な商品になるほどのものなのだが、「WEDGWOOD」というブランドを冠するとなると細かな規格があるので、この状態からさらに加工を続けて大きさや形状を統一していくことになる。それにしても大きな手だ。「グローブ」というのは大袈裟な比喩だが、肉厚は私の手の倍はありそうだ。大きさは私の1.5倍くらいだろうか。嫌でもその手に興味を引かれるおかげで、実演の手先の動きに集中して見学することができた。
私は陶芸を始めて日が浅い所為もあるのだが、轆轤での土の扱いがぎこちない。土を扱うというより、土に扱われているかのようだ。腕力の違いは勿論あるだろうが、今日の実演を観ていて、もっと土に対して強気で臨んだほうがよいのかとも思った。以前、濱田庄司が轆轤を挽いているところのビデオを観たことがあるのだが、そのときは土と手との一体感のようなものが感じられた。今日は土塊が小さな所為か、土が手に支配されているかのような印象だった。どちらにしても、土に向かう姿勢を改めて考えてみないといけない。それは文字通り身体の姿勢でもあるのだが、気持ちのほうも重要だ。
この実演が行われたのは新宿高島屋10階のウエッジウッドのコーナーだ。実演者は同社のMaster Craftmanという肩書きのJon French氏。会場で配られていたチラシには「Jon」とあるが「John」の誤りではないかと思うのは私だけだろうか。3月3日から5日まで日に3回づつ実演をしている。
今日、新宿へ出かけたのは、1月の陶芸個展で作品を購入してくれた知人に商品を届けるためだ。ずっと都合が合わなくて今日になってしまったのである。受け渡しのついでに彼のオフィスに近い小田急ホテルセンチュリーの中華料理屋シェンロンで昼食を共にした。もともと同業者なので、最初は仕事絡みの話題から会話が始まるのだが、お互いに一線から退いて年月を経ていることもあり、知り合って12-13年という付き合いでもあるので、自然に話題は近況のなかの仕事とは無関係なほうへと移る。尤も、どのように生計を立てていくかということについての話題は「仕事」の関係と言えなくもない。個展で会ってから1ヶ月半ほど間が空いているが、それでも2時間近く話し込んでいた。
彼と別れた後、陶芸教室に案内状が置いてあった「松田剣 作陶展」を拝見しようと高島屋を訪れたのである。そこで冒頭の実演がまさに始まろうとしていたというわけだ。実演は30分ほどだったが、その後、30分ほど同じフロアにある「ギャラリー暮らしの工芸」というコーナーで作陶展やそのほかの諸々を眺めて回った。あまり百貨店を訪れる機会は多くないのだが、いままでこのような売り場があることを知らなかった。なかなか見応えのある場所だ。
この後、日本橋へ出て、三井記念美術館でお雛様を眺めてから出社した。日本には四季折々の年中行事があるが、宮中行事にルーツのあるものは大掛かりなものが多いように思う。雛祭もそのひとつだろう。人形をたくさん飾って特別に用意した食卓を家族で囲むというようなことは、準備する人にとっては大仕事だが、そうした準備も含めて、行事全体が精神性の豊かさを感じさせる。自分自身は雛人形とも五月人形とも無縁なのだが、今、どれほどの家庭でこうした節句の人形を飾るものなのだろうか。ただ、私個人としては、こうして美術館で眺める分にはよいのだが、たとえ物理的な事情が許したとしても、自宅に飾ろうとは思わない。人形を飾るという心情になんとなく粘着的な気質が感じられ、それを心地よく思えないのである。おなじことはペットを飼うことについても感じることだ。人ではないものを擬人化して、そこに己の欲望や自我を投影するということに、過剰な自意識と、その過剰を安直に表出させる傲慢さとを感じてしまう。だから、私は装飾過多に感じられる相手とか愛玩動物を飼っている人とは自然に距離を置いてしまう。
さて、実技のほうはジャスパー・ウエアの制作だ。これはウエッジウッドの代名詞のようなもので、土は同社独自のものである。陶土と磁土の中間のようなもので、stone wareの一種だ。会場の通訳は「石器」と訳していたが、これは正確ではない。確かに辞書には「石器」という訳語も記載されているが、日本語の「石器」はstone toolを指すのが一般的だろう。無理に「半陶器」などという訳語を使うのを見かけたこともあるが、「ストーン・ウエア」としておいたほうが誤解が少ないように思う。
土の密度がどれほどか、見た目にはわからなかったが、おそらく1kg弱くらいの土塊をグローブのような手が挽いていく。何度か土殺しをして、解説をしながら、まずは筒状に挽く、そこから口をすぼめてあっという間に瓶が出来上がる。最後に下のほうをナイフで整形して轆轤を止め、ワイヤで切り離す。その巨大な身体からは想像できないような繊細で流れるような動作で、小さな均整のとれた美しい形の瓶が作り出されるのは、まさに職人技だ。このまま焼成しても立派な商品になるほどのものなのだが、「WEDGWOOD」というブランドを冠するとなると細かな規格があるので、この状態からさらに加工を続けて大きさや形状を統一していくことになる。それにしても大きな手だ。「グローブ」というのは大袈裟な比喩だが、肉厚は私の手の倍はありそうだ。大きさは私の1.5倍くらいだろうか。嫌でもその手に興味を引かれるおかげで、実演の手先の動きに集中して見学することができた。
私は陶芸を始めて日が浅い所為もあるのだが、轆轤での土の扱いがぎこちない。土を扱うというより、土に扱われているかのようだ。腕力の違いは勿論あるだろうが、今日の実演を観ていて、もっと土に対して強気で臨んだほうがよいのかとも思った。以前、濱田庄司が轆轤を挽いているところのビデオを観たことがあるのだが、そのときは土と手との一体感のようなものが感じられた。今日は土塊が小さな所為か、土が手に支配されているかのような印象だった。どちらにしても、土に向かう姿勢を改めて考えてみないといけない。それは文字通り身体の姿勢でもあるのだが、気持ちのほうも重要だ。
この実演が行われたのは新宿高島屋10階のウエッジウッドのコーナーだ。実演者は同社のMaster Craftmanという肩書きのJon French氏。会場で配られていたチラシには「Jon」とあるが「John」の誤りではないかと思うのは私だけだろうか。3月3日から5日まで日に3回づつ実演をしている。
今日、新宿へ出かけたのは、1月の陶芸個展で作品を購入してくれた知人に商品を届けるためだ。ずっと都合が合わなくて今日になってしまったのである。受け渡しのついでに彼のオフィスに近い小田急ホテルセンチュリーの中華料理屋シェンロンで昼食を共にした。もともと同業者なので、最初は仕事絡みの話題から会話が始まるのだが、お互いに一線から退いて年月を経ていることもあり、知り合って12-13年という付き合いでもあるので、自然に話題は近況のなかの仕事とは無関係なほうへと移る。尤も、どのように生計を立てていくかということについての話題は「仕事」の関係と言えなくもない。個展で会ってから1ヶ月半ほど間が空いているが、それでも2時間近く話し込んでいた。
彼と別れた後、陶芸教室に案内状が置いてあった「松田剣 作陶展」を拝見しようと高島屋を訪れたのである。そこで冒頭の実演がまさに始まろうとしていたというわけだ。実演は30分ほどだったが、その後、30分ほど同じフロアにある「ギャラリー暮らしの工芸」というコーナーで作陶展やそのほかの諸々を眺めて回った。あまり百貨店を訪れる機会は多くないのだが、いままでこのような売り場があることを知らなかった。なかなか見応えのある場所だ。
この後、日本橋へ出て、三井記念美術館でお雛様を眺めてから出社した。日本には四季折々の年中行事があるが、宮中行事にルーツのあるものは大掛かりなものが多いように思う。雛祭もそのひとつだろう。人形をたくさん飾って特別に用意した食卓を家族で囲むというようなことは、準備する人にとっては大仕事だが、そうした準備も含めて、行事全体が精神性の豊かさを感じさせる。自分自身は雛人形とも五月人形とも無縁なのだが、今、どれほどの家庭でこうした節句の人形を飾るものなのだろうか。ただ、私個人としては、こうして美術館で眺める分にはよいのだが、たとえ物理的な事情が許したとしても、自宅に飾ろうとは思わない。人形を飾るという心情になんとなく粘着的な気質が感じられ、それを心地よく思えないのである。おなじことはペットを飼うことについても感じることだ。人ではないものを擬人化して、そこに己の欲望や自我を投影するということに、過剰な自意識と、その過剰を安直に表出させる傲慢さとを感じてしまう。だから、私は装飾過多に感じられる相手とか愛玩動物を飼っている人とは自然に距離を置いてしまう。