「昔の武将は歌を詠み、能を舞ひ、茶道を興し、書をよくした。素人は、何らかの芸術に携わらなければ人間ではなかったのである。だから一方では、書家の書といふ言葉が出来た。書家の書と言へば「茶人」と同じ意味で、専門家を軽蔑した代表的な言葉だが、文人画家はまさに「絵師の絵」と言って玄人を軽蔑したのである。さうかと言って素人だから分がいい理由もないし、専門家だから特別に何か分かっていた訳でもないのである。」(青山二郎「青山二郎全文集」下巻 ちくま学芸文庫 170頁)
昔、職場で能書きばかりの奴が「識者」と呼ばれて馬鹿にされていた。明確に結果の出る仕事だったので、能書きの多寡も現実の成績も一目瞭然であった。不思議なもので、「識者」本人は、自分の能書きと成績の乖離を認識できていないという傾向が強かった。あるいは認めたくない現実を隠蔽すべく声高に能書きを語っていたのかもしれない。
久しぶりにニュース雑誌を駅の売店で買って読んでみた。今の時期は当然に震災と原発の話ばかりなのだが、新しいことはなにひとつ書かれていないような印象を受けた。雑誌なので、記事が書かれてから発行されるまでにある程度の時間を経ている。それゆえ、事実関係の解説よりは、識者の意見のような比較的日持ちのする記事を中心に据えることになる。識者の現地ルポ、識者の対談、識者のコメント、それぞれの識者の立場から震災とか原発事故を語っているが、全体としてみれば、我々市井の者が仲間内で語る内容と然したる違いはない。その違いの無さに安心する読者もいるだろうし物足りなさを感じる読者もいるのだろう。何故、識者と市井の人々との間に違いがないかといえば、どちらも当事者ではないという共通基盤に立っているからだ。市井の無名の人が文章を書いたり語ったりしても、そこに商業的価値がないので識者を使っているだけのことで、そうすることによってメディアは商品として市場に流通可能な形式を備えるのである。
マス・メディアは商品であり商売ネタなのである。商品は売れなければ商品たりえない。売るためには、多少えげつなくとも、人を煽るような要素がないといけない。バナナの叩き売りのハリセンとか芝居の拍子木の類など、なにはともあれ人々の注意を喚起するものが必要不可欠なのである。どれほど高尚な内容が盛り込まれていたとしても、そうしたえげつないものと同じ枠内に収めないと商品として市場に出て行かない。その雑誌に毎回エッセイを寄稿していた劇作家が、前週号の内容が「扇動的」であったことに抗議して今回を限りに降りてしまったが、本当の理由は別にあるのではないかと思ってしまった。自分自身が劇団を組織しているほどの人なら、マスとかマス・メディアといったものがどういうものか百も承知だろう。だからこそ、自身のレピュテーション・リスクの管理上、露出先のメディアを厳しく選別する必要があるということだと思う。マスを相手にしている商売が扇動的でなかったら、そもそもその商売は成り立たない。その扇動のツールのひとつが識者だ。多くの場合、大学の先生とかなんとか研究所の研究者というような知的な印象のある肩書きを持っているが、マス・メディアにおける識者というのは芸人の1ジャンルでしかない。そういうつもりで識者の言葉を聞いていれば、過度に悲観したり楽観したりすることもなくなるのではなかろうか。
昔、職場で能書きばかりの奴が「識者」と呼ばれて馬鹿にされていた。明確に結果の出る仕事だったので、能書きの多寡も現実の成績も一目瞭然であった。不思議なもので、「識者」本人は、自分の能書きと成績の乖離を認識できていないという傾向が強かった。あるいは認めたくない現実を隠蔽すべく声高に能書きを語っていたのかもしれない。
久しぶりにニュース雑誌を駅の売店で買って読んでみた。今の時期は当然に震災と原発の話ばかりなのだが、新しいことはなにひとつ書かれていないような印象を受けた。雑誌なので、記事が書かれてから発行されるまでにある程度の時間を経ている。それゆえ、事実関係の解説よりは、識者の意見のような比較的日持ちのする記事を中心に据えることになる。識者の現地ルポ、識者の対談、識者のコメント、それぞれの識者の立場から震災とか原発事故を語っているが、全体としてみれば、我々市井の者が仲間内で語る内容と然したる違いはない。その違いの無さに安心する読者もいるだろうし物足りなさを感じる読者もいるのだろう。何故、識者と市井の人々との間に違いがないかといえば、どちらも当事者ではないという共通基盤に立っているからだ。市井の無名の人が文章を書いたり語ったりしても、そこに商業的価値がないので識者を使っているだけのことで、そうすることによってメディアは商品として市場に流通可能な形式を備えるのである。
マス・メディアは商品であり商売ネタなのである。商品は売れなければ商品たりえない。売るためには、多少えげつなくとも、人を煽るような要素がないといけない。バナナの叩き売りのハリセンとか芝居の拍子木の類など、なにはともあれ人々の注意を喚起するものが必要不可欠なのである。どれほど高尚な内容が盛り込まれていたとしても、そうしたえげつないものと同じ枠内に収めないと商品として市場に出て行かない。その雑誌に毎回エッセイを寄稿していた劇作家が、前週号の内容が「扇動的」であったことに抗議して今回を限りに降りてしまったが、本当の理由は別にあるのではないかと思ってしまった。自分自身が劇団を組織しているほどの人なら、マスとかマス・メディアといったものがどういうものか百も承知だろう。だからこそ、自身のレピュテーション・リスクの管理上、露出先のメディアを厳しく選別する必要があるということだと思う。マスを相手にしている商売が扇動的でなかったら、そもそもその商売は成り立たない。その扇動のツールのひとつが識者だ。多くの場合、大学の先生とかなんとか研究所の研究者というような知的な印象のある肩書きを持っているが、マス・メディアにおける識者というのは芸人の1ジャンルでしかない。そういうつもりで識者の言葉を聞いていれば、過度に悲観したり楽観したりすることもなくなるのではなかろうか。