熊本熊的日常

日常生活についての雑記

独り立ち

2011年03月06日 | Weblog
昨日、実家に行ったとき、ぎゃらりぃ81から「北欧500選」の案内が届いていた。オーナーの吉村さんからもご案内のお電話を頂いていたので、今日はそれを拝見に伺った。北欧の作家の作品を集めたとのことだったので、だいたい想像はついたが、期待に違わぬものだった。

先日、ウエッジウッドの実演を観たときにも感じたのだが、おそらく欧州の陶磁器はかなり高速回転の轆轤で挽くのだろう。造形がシャープで凛とした印象が強い。さらに北欧陶磁器について言えば、ブルーに特徴があるように思う。日本語の「青」とはちょっと違うので敢えて「ブルー」としておく。勿論、所謂「染付」や「呉須」とは全然違う。トルコなど中東の陶器によく使われるブルーの影響があるような気がするのだが、北欧では陶磁器といえば藍に近いブルーの釉薬をかけるということが決まりごとになっているかのような印象だ。

自分が陶芸をしているので、よほどのことが無い限り市販の陶磁器を買うことはない。今回も自分が作るものの参考になるようなものはいくらもあったが、陶磁器は買わずにErik Hoglundのガラス器をひとつ購入させていただいた。小さなマルチトレイで、すぐに用途が思いつかないのだが、色が個性的であったので、手元に置いておきたいと思ったのである。最近、今までの自分なら選ばなかったであろう色形のものを敢えて選ぶように心がけている。それはこうした雑貨だけでなく衣料品についても意識していることで、ここ数ヶ月の間でもジーンズとかオレンジ色のシャツ、スウェードの靴といった、それまでならば選択の対象にすらならなかったようなものを積極的に選択している。そうすることで自分の生活の何かが変わるのではないかという期待もあるし、変えようという決意の表明でもある。そのマルチトレイはオレンジ色のガラスだ。たぶん、素直に選べばブルーかブラウンのものにしていたと思う。オレンジのガラスということ自体に個性を感じたのと、それが自分の生活のなかでどのようなふうに落ち着くものなのか見てみたいという好奇心から、この色を選んでみた。

ぎゃらりぃ81で吉村さんとお話させていただきながら小一時間ほど過ごした後、せっかくなので近くの東博に立ち寄る。平山郁夫展の最終日だったが、「総合文化展」と銘打った常設展のほうだけを眺めて、久しぶりに橙灯へ行った。

一月ほど前、橙灯の坂崎さんがフードプロセッサで指に酷い怪我をして営業を休んでいるという話を耳にした。ずっと気になっていたのだが、最近になって営業を再開したようなので、出かけてみたのである。
「怪我したんだって?」
と尋ねると、彼女は包帯を巻いた指を掲げた。店を3週間閉めることになったのだそうだ。

自営業というのは病気や怪我のときが大変だ。その点、会社勤めというのは…、と思いかけて、ふと気付いた。かつては、そこそこの会社に勤めていれば、病気や怪我で勤務できない状況に陥っても、すぐにどうこうということにはならなかったが、今はなんのかんのと理由を付けて解雇されてしまうことも珍しくはない。健康管理というのは、今や単に気分の問題ではなく、生活保障の基本なのである。当たり前の状態になったと言えないこともないだろうが、世知辛い時勢になったものだ。

それでも、不景気だのなんだのと言われながら、今の時代に日本で生まれ暮らすというのは恵まれたことだと思う。勿論、生まれることそのものが恵まれたことであるか否かということは、別の話としてのことだ。この国で、平均的な家庭に生まれれば学校を卒業するまでは、親の庇護の下で暮らし、就職をすれば就職先の企業や団体の庇護の下で生活をすることができる。齢を重ねて社会の一線から退いた後は、国の庇護の下で余生を送ることになる。その庇護の程度がどれほどのものかということはさておいて、社会という巨大組織のなかで常に守られて暮らすことができるのが、文明というものの一側面である。そして日本はまだ文明国の範疇に属していると思う。

しかし、その庇護の仕組みが徐々に破綻しているように感じられる。橙灯でも、席でエントリーシートを書いている学生が時々いるらしが、安穏と暮らしてきて、ろくに生活というものを知らないうちに就職という大きな選択を迫られる。然したる不自由も無く生きていれば、「やりたいこと」などそうあるものでもないだろう。それでも無理やり即席の「やりたいこと」をでっちあげないことには世の中の流儀に合わないのである。真面目に考えてしまえばこれほど難儀なこともないのだが、そういうゲームをしていると思えばそれほど難しいことでもあるまい。安穏と暮らすことしか知らないと、そうした生活の匙加減はわからない。

たまたま橙灯で隣のテーブルにいた人たちが、それぞれの仕事の悩みというか愚痴のようなことを話していたが、申し訳ないのだが、しょうもないことばかりだった。就職したらしたで、そういうしょうもないこととの付き合いも出てくるのである。当たり前のことだが、そういうしょうもないことに真面目に付き合う必要など全く無い。しかし、あからさまに「しょうもない」という態度を示せば人間関係は上手くいかない。これもまた匙加減の問題だ。

そうした諸々の馬鹿馬鹿しいことに付き合うことで、我々は社会というものに守られて暮らすことができるのである。それが近頃は社会のほうに余裕がなくなって馬鹿馬鹿しいことに付き合っても守られるということがなくなってきた。おかげで私のような者にとっては気楽なことになってきたが、いつまでもこのままというわけにはいかないことは誰にでもわかることだ。財政難だの少子高齢化だのと言いながら徴税を強化しながら福祉は削り差額をなんとかすることを虎視眈々と狙う輩が跋扈するなかで、既存の形骸化した「社会」には依存しない独自の「社会」を構築しなければ生活がままならない時代になりつつあると思っている。今の時代の困難は、景気低迷の長期化とか少子高齢化による経済の縮小という現象面もさることながら、そうした状況のなかで既成概念に囚われない独自の精神を持つことを要求されることにあるのではないだろうか。

市場経済という世界の大枠のなかでは、資本の集中が起こるのは自然なことだ。端的には企業の合併ということだが、経済単位となる組織が巨大化するのは企業の世界だけではない。先日発表された警察庁の資料では暴力団も山口組の一極集中が顕著になっているという。暴力団も経済単位のひとつなので、そこに巨大組織が生成するのは当然だ。市場経済という世の中の基本原理は集中を生むようにできている。「1984年」には間に合わなかったが、世界はそこに描かれているようなものへと向かうのだろう。こうして匿名でブログを書いているつもりでも、ちょっと調べれば熊本熊が何者なのか容易に判明するだろうし、現に大学入試という「公」の場でネットの匿名幻想を信じて国家権力に検挙された子供がいる。そうした巨大な潮流のなかにあるからこそ、流れに乗ろうとするのではなく、自分自身であろうとする姿勢が心地良く生きるためには必要なのだろう。巨大な潮流なのだから、敢えて乗ろうとしなくても、乗っていられるのが自然というものだ。流れに乗りながら自分自身であろうとするというのも、精神の匙加減ではないだろうか。その加減の尺度を持つことが独り立ちして生きるということなのではないだろうか。