「企業版勝手連」
Give & Giveの精神で活動することを念頭にして、会のネーミングを参加者全員から募ったところ、それこそ1人1案、いろんなネーミングが出た。
その中で最終的には東京のメンバー・HTP研究所の伊藤克彦氏(当時はリクルート映像在籍)が提案した「リエゾン21」の「リエゾン」と、九州を付けて「リエゾン九州」というネーミングにした。
九州と付けたのは我々の存立基盤は九州であり、足元を大事にしたいという拘りと同時に、全国各地に同じような組織が出来ることを期待(例えばリエゾン中国、リエゾン四国、関西、東北)したからだ。
「風が吹けば桶屋が儲かる」
リエゾン九州を立ち上げた時、「風が吹けば桶屋が儲かる」と皆に言った。
目先の直接的な利益を考えなくても、地元経済がよくなれば必ず皆もその恩恵を受けるはず。だから人のために活動しようじゃないか、と言ったのだ。
情けは人のためならず、だ。
本来、日本人はドライな金の亡者ではなく、地域協同社会的な助け合いの精神を持った人間だった。それがいつの頃からか、アメリカ経済のドライな感覚(それも表面だけの)を信奉し、助け合いの精神を忘れていった。
一体、いつの頃からそうなったのか。
恐らく狩猟民族、農耕民族という言葉がしきりに言われるようになった頃から、次第に農耕民族的なものは時代遅れ、マイナスというように見られ出したのではないか。
そして、日本人の心がそれ以前とそれ以後にはっきり分かれたのはバブル期を境にしてである。
バブル期は失われた10年と言われるが、失われたのは日本的な心である。
どうも日本人は白人(アメリカ人)コンプレックスが強くて、なんでもかんでもアメリカに追随(見習うとも言いますが)しようとする。
とにかく極端だ。
日本的な経営は時代遅れで悪、アメリカ的な経営は善、義理人情、浪花節的なものは悪、ドライでビジネスライクなものは善。
そういう考えが企業のトップから身近な所に至るまではびこっている。
リエゾン九州を立ち上げた時も散々言われた。ボランティアではダメだよ、と。
彼らの考えではボランティア=無責任、ビジネス=責任だ。
果たしてそうだろうか。
ビジネス優先の考えこそが現在、様々な問題を起こしているというのに。
個人の能力をフルに発揮する喜び
ひと言で言えば、助けてもらいたい企業ではなく、助けたい企業を応援する、ということだ。
こんなに面白い(ユニークな)商品があるのに、あるいはいい商品があるのに、どうして売れないのか。
こんなにいい技術を持っている会社にはもっと頑張って欲しい。
そう思える企業を応援したい。
だから、応援する方もワクワクする感動を味わえるのだ。
自分のことばかり考える利己的な世の中に、こんな活動があってもいいではないか。
恐らく仕事では、誰もが自分の持てる能力のすべてを出してないし、使える環境にないはず。いわば密かに眠っている能力、それを使える場がリエゾンなのだ。
例えばデザイナーなら、仕事ではデザイナーとしての能力を、会計士や税理士なら企業会計や税理面の能力を、弁理士なら特許関係のことしか期待されてないだろう。
だが、個人としてみた場合、仕事としては税理士をしていても、実は建築に関してかなり勉強していたり、照明について一家言持っているなどということがある。
だが、そうした能力は自分の専門の仕事では生かされない。
つまり眠ったままなのだ。
職業としての期待ではなく、個人が持っている能力への期待と、それを惜しみなく出せる環境。
企業版勝手連だから、それができるし、そんなことをしてみようじゃないか。
報酬は自分の能力をフルに活用できる喜びと、時々仲間と一緒に歓談できる美酒・・・。それでは不満だろうか。
Give & Giveの精神で活動することを念頭にして、会のネーミングを参加者全員から募ったところ、それこそ1人1案、いろんなネーミングが出た。
その中で最終的には東京のメンバー・HTP研究所の伊藤克彦氏(当時はリクルート映像在籍)が提案した「リエゾン21」の「リエゾン」と、九州を付けて「リエゾン九州」というネーミングにした。
九州と付けたのは我々の存立基盤は九州であり、足元を大事にしたいという拘りと同時に、全国各地に同じような組織が出来ることを期待(例えばリエゾン中国、リエゾン四国、関西、東北)したからだ。
「風が吹けば桶屋が儲かる」
リエゾン九州を立ち上げた時、「風が吹けば桶屋が儲かる」と皆に言った。
目先の直接的な利益を考えなくても、地元経済がよくなれば必ず皆もその恩恵を受けるはず。だから人のために活動しようじゃないか、と言ったのだ。
情けは人のためならず、だ。
本来、日本人はドライな金の亡者ではなく、地域協同社会的な助け合いの精神を持った人間だった。それがいつの頃からか、アメリカ経済のドライな感覚(それも表面だけの)を信奉し、助け合いの精神を忘れていった。
一体、いつの頃からそうなったのか。
恐らく狩猟民族、農耕民族という言葉がしきりに言われるようになった頃から、次第に農耕民族的なものは時代遅れ、マイナスというように見られ出したのではないか。
そして、日本人の心がそれ以前とそれ以後にはっきり分かれたのはバブル期を境にしてである。
バブル期は失われた10年と言われるが、失われたのは日本的な心である。
どうも日本人は白人(アメリカ人)コンプレックスが強くて、なんでもかんでもアメリカに追随(見習うとも言いますが)しようとする。
とにかく極端だ。
日本的な経営は時代遅れで悪、アメリカ的な経営は善、義理人情、浪花節的なものは悪、ドライでビジネスライクなものは善。
そういう考えが企業のトップから身近な所に至るまではびこっている。
リエゾン九州を立ち上げた時も散々言われた。ボランティアではダメだよ、と。
彼らの考えではボランティア=無責任、ビジネス=責任だ。
果たしてそうだろうか。
ビジネス優先の考えこそが現在、様々な問題を起こしているというのに。
個人の能力をフルに発揮する喜び
ひと言で言えば、助けてもらいたい企業ではなく、助けたい企業を応援する、ということだ。
こんなに面白い(ユニークな)商品があるのに、あるいはいい商品があるのに、どうして売れないのか。
こんなにいい技術を持っている会社にはもっと頑張って欲しい。
そう思える企業を応援したい。
だから、応援する方もワクワクする感動を味わえるのだ。
自分のことばかり考える利己的な世の中に、こんな活動があってもいいではないか。
恐らく仕事では、誰もが自分の持てる能力のすべてを出してないし、使える環境にないはず。いわば密かに眠っている能力、それを使える場がリエゾンなのだ。
例えばデザイナーなら、仕事ではデザイナーとしての能力を、会計士や税理士なら企業会計や税理面の能力を、弁理士なら特許関係のことしか期待されてないだろう。
だが、個人としてみた場合、仕事としては税理士をしていても、実は建築に関してかなり勉強していたり、照明について一家言持っているなどということがある。
だが、そうした能力は自分の専門の仕事では生かされない。
つまり眠ったままなのだ。
職業としての期待ではなく、個人が持っている能力への期待と、それを惜しみなく出せる環境。
企業版勝手連だから、それができるし、そんなことをしてみようじゃないか。
報酬は自分の能力をフルに活用できる喜びと、時々仲間と一緒に歓談できる美酒・・・。それでは不満だろうか。