今回、この便利な条件を1つ変えた。固定電話を解約したのだ。すでに1年前にインターネットのプロバイダー契約は解約していたが、今回、電話回線も解約した。すでに数年前から電話が使われることはなかったし、母も2月に亡くなり、固定電話が使われることはますますなくなったからだ。
結果、帰省中インターネットに接続する機会が激減した。どうしてもインターネットに接続しなければいけない時は車で近くのセブンイレブンまで出向き、そこの無料WiFiに接続している。
まあ、そんな面倒なことは極力したくないからどうしてもデジタル離れになる。代わりに増えたのが手紙と電話。メールのような手軽さはないが、相手との距離感がまるで違うことも実感した次第である。
◆嫌いな田舎生活が好きに
以前、嫌いだった田舎生活が最近気に入っている。1年前、福岡に引き取った母も亡くなり、帰省する理由もなくなったが、それでも以前と同じように数か月に一度帰省し、誰もいない家で1週間程度滞在している。できることなら、このまま田舎の家で生活したいとさえ思いだしている。
田舎生活のどこが気に入っているのかと自問自答して分かったことが一つ。静かな環境と広い空間だ。家は古いが室内外の空間が広く、そのことが落ち着きを与えてくれる。個人的に最も好きなのは実家の風呂だ。マンションのユニットバスの3倍はある広いスペースはなによりリラックスできる。
どの部屋に行くにも段差があり、歳を取り足元が覚束なくなると室内を歩くにも注意が必要だが、いまのところはまだ大丈夫。多少の不自由さより開放感の方が勝り、田舎の家にいると生き返ったような気持ちになる。ただし、冬の間は逆の気持ちになるが。
田舎が嫌いだった理由の一つに濃い人間関係もあった。監視カメラで常に「盗撮」されている都会よりマシかもしれないが、田舎ではプライバシーはあってないようなものだ。何時ごろ起きて何をしているか、いつ誰が訪ねてきたかなどが全て把握されている。都会の「隣は何をするものぞ」の無関心も困るが、関係が濃い過ぎて生活が筒抜けなのも困る。
だが近年の過疎化で、町内の世帯数も減り、隣家との距離も物理的に開き出し、そのことが濃い過ぎず、薄過ぎないちょうどいい距離感を生み出してきた。過干渉と無干渉のちょうど中間というか、付かず離れずの距離感が保たれるようになり、それが心地いいのだ。
例えば向かいの家との関係。広縁に腰掛けいつも外を眺めているので、いちいち挨拶しなくても私がいつ出かけたのかを知っているし、留守中誰かが訪ねて来ても、それが不審な人間かどうかまで含めチェックしてくれている。
いうなら人間セキュリティーシステムみたいなもので、実はそれで随分助けられている。ある時などは大阪の従弟が偶然、何の連絡もなく訪ねて来たが、「先程出かけられましたよ」と教えられたようで、従弟から私のケータイに電話がかかってきて、無事会うことができたし、ある時などは見かけぬ人間がうちの家の方に歩いて行ったので、泥棒だといけないと考え、そっと後ろを付けて様子を見に行ったと後日教えられた。見守ってもらっているわけだが、昔なら「見られている」と不快感を感じたかもしれないが、いまは助けられていると感謝している。
都会で犯罪が増えているのは人が多すぎることにも原因があるのではないか。ある空間に必要以上に生物(人でも魚でもマウスでも)を入れると、ストレスでそのうちの何10%かが亡くなるということは実験で知られている。同じことは人間社会でも言え、近年の無差別殺人の起因はそのことと無関係ではなさそうだ。
結果、帰省中インターネットに接続する機会が激減した。どうしてもインターネットに接続しなければいけない時は車で近くのセブンイレブンまで出向き、そこの無料WiFiに接続している。
まあ、そんな面倒なことは極力したくないからどうしてもデジタル離れになる。代わりに増えたのが手紙と電話。メールのような手軽さはないが、相手との距離感がまるで違うことも実感した次第である。
◆嫌いな田舎生活が好きに
以前、嫌いだった田舎生活が最近気に入っている。1年前、福岡に引き取った母も亡くなり、帰省する理由もなくなったが、それでも以前と同じように数か月に一度帰省し、誰もいない家で1週間程度滞在している。できることなら、このまま田舎の家で生活したいとさえ思いだしている。
田舎生活のどこが気に入っているのかと自問自答して分かったことが一つ。静かな環境と広い空間だ。家は古いが室内外の空間が広く、そのことが落ち着きを与えてくれる。個人的に最も好きなのは実家の風呂だ。マンションのユニットバスの3倍はある広いスペースはなによりリラックスできる。
どの部屋に行くにも段差があり、歳を取り足元が覚束なくなると室内を歩くにも注意が必要だが、いまのところはまだ大丈夫。多少の不自由さより開放感の方が勝り、田舎の家にいると生き返ったような気持ちになる。ただし、冬の間は逆の気持ちになるが。
田舎が嫌いだった理由の一つに濃い人間関係もあった。監視カメラで常に「盗撮」されている都会よりマシかもしれないが、田舎ではプライバシーはあってないようなものだ。何時ごろ起きて何をしているか、いつ誰が訪ねてきたかなどが全て把握されている。都会の「隣は何をするものぞ」の無関心も困るが、関係が濃い過ぎて生活が筒抜けなのも困る。
だが近年の過疎化で、町内の世帯数も減り、隣家との距離も物理的に開き出し、そのことが濃い過ぎず、薄過ぎないちょうどいい距離感を生み出してきた。過干渉と無干渉のちょうど中間というか、付かず離れずの距離感が保たれるようになり、それが心地いいのだ。
例えば向かいの家との関係。広縁に腰掛けいつも外を眺めているので、いちいち挨拶しなくても私がいつ出かけたのかを知っているし、留守中誰かが訪ねて来ても、それが不審な人間かどうかまで含めチェックしてくれている。
いうなら人間セキュリティーシステムみたいなもので、実はそれで随分助けられている。ある時などは大阪の従弟が偶然、何の連絡もなく訪ねて来たが、「先程出かけられましたよ」と教えられたようで、従弟から私のケータイに電話がかかってきて、無事会うことができたし、ある時などは見かけぬ人間がうちの家の方に歩いて行ったので、泥棒だといけないと考え、そっと後ろを付けて様子を見に行ったと後日教えられた。見守ってもらっているわけだが、昔なら「見られている」と不快感を感じたかもしれないが、いまは助けられていると感謝している。
都会で犯罪が増えているのは人が多すぎることにも原因があるのではないか。ある空間に必要以上に生物(人でも魚でもマウスでも)を入れると、ストレスでそのうちの何10%かが亡くなるということは実験で知られている。同じことは人間社会でも言え、近年の無差別殺人の起因はそのことと無関係ではなさそうだ。