次は「緩変」「ゆでガエル」の話題。
この頃、TVが面白くないこともあり、田舎に滞在中はほとんどTVをつけない。
せいぜい昼食時と、夕食時にニュースを観るぐらいだがニュース番組も面白くないので、最近はニュースも観なくなった。
ニュースに面白いも面白くないもないだろうと言われそうだが、どのチャンネルでも
同じような事件を同じような切り口で繰り返し流されれば面白くないというかうんざりする。
だったら観なければいいではないかと言われればその通りで、このところ福岡にいる時でもニュースさえ観なくなった。
まあ、TVに限らずメディアの画一化傾向は今に始まったわけではないが、
ますます酷くなるのを見ていると不安に駆られる。
昔、キャビンクルー(客室乗務員)が機内食を運んできて「meat or fish?」と尋ね、
「meat」と乗客が言うと「fish.it's only」と客室乗務員が答えるCMが流れていたのをご記憶だろうか。
人をバカにしたようなCM(の場面)だが、このCMの面白さ(小バカさ加減)は、
さも肉か魚を選べるような聞き方をしながら、実は魚しか選べないという点だ。
笑えないのは、こうしたことが現実世界で案外見られるからである。
一見、選択肢があるように見せながら実は選択肢がないだけではなく、
その1つのものを自分で選んだと思わせられている。
そう、カードマジックでよく見られるシーンだ。
マジックの場合はマジックと分かりながら見ているからまだいい。それでも欺されるが。
もし、これが現実世界で行われていたらどうか。
自分で選択したのではなく、選択させられていたのだとすれば。
実はつい最近、それに似たようなことを報道各社が行っていた。
TOKIOのメンバー(当時)山口達也が起こした強制わいせつ事件の報道である。
どのチャンネルも繰り返し、この事件を取り上げるのには辟易したが、
疑問を感じたのは「山口メンバー」という呼称である。
なぜ「山口達也」でも「山口達也容疑者」でもなく「山口メンバー」なのか。
恐らくこの呼称に対して違和感を感じている人が結構いたのだろう。
朝日新聞は5月11日付の紙面で<なぜ山口達也「メンバー」? あの事件、あの人の呼称は>
と題した記事を書き、次のように弁明している。
<朝日新聞ではかつて、刑事事件の容疑者を原則として呼び捨てで報道していたが、
人権への配慮から1989年、逮捕された人を原則として「容疑者」と呼ぶ方針に変わった。
書類送検の場合は、事件事故の報道の際の表記のガイドラインに基づき、
事案の軽重や当事者の属性などを踏まえて実名か匿名か、
どのような呼称にするかを個別に判断することとしている。>
一見もっともらしい説明である。
しかも「どのような呼称にするかを個別に判断する」と逃げている。
つまり明確なルールはない。
その時々で呼称を変えるから「メンバー」と表記しようと「容疑者」と表記しようと自由だ、
と言っているのだ。
第一、そんな弁明を紙面でいちいちしなければならない方がおかしい。
これがスポーツ新聞なら(失礼)まだ分からないことはない。
だが、天下の朝日新聞が、いやお堅い一般紙がわざわざ紙面を割いて
弁明しなければいけないところにこそ問題がある。
朝日新聞も芸能新聞になってしまったのか、朝日の矜持はどこへ行ったのだ、
というのは大袈裟過ぎるだろうか。
朝日新聞に限ることではなく他紙やTV各局は一様に「メンバー」という呼称を使っている。
例外は読売新聞の「容疑者」と日刊スポーツの呼び捨てだった
(もしかするとほかにもあったかもしれないが、私の知る範囲では)。
朝日新聞より系列スポーツ紙の方が余程潔い。
今回の事件は強制わいせつ事件である。
最終的には被害者と示談が成立しており不起訴となったが書類送検もされた事件だ。
しかも相手は未成年。それなのにメディア各社の「メンバー」連呼は何だ。
ここでちょっと前の事件、草彅剛氏が酔って公園で裸になったとして逮捕された事件
(不起訴)を思い出して欲しい。
公然わいせつ罪だったが、草彅容疑者という呼称が使われている。
この2つを比較するだけでも、今回の「メンバー」呼称に違和感を感じた人は多いだろう。
ついでに言うと、無理矢理キスを迫って「強制わいせつ」という表現にも疑問を感じるが、
その点は置くとしても、強制わいせつで書類送検された
(少なくとも不起訴処分になる前)段階でさえ「山口メンバー」という呼称を
連呼するのには強い違和感を感じる。
そして前述の朝日新聞のような「言い分け」を鵜呑みにしている人達がある程度いたことに対しても。
メディアによる呼称の使い方は強いものへの「忖度」である。
タレントを抱える芸能事務所にしてみれば所属タレントが「容疑者」と呼ばれるのは好まない。
タレントはイメージ商売だから、そのイメージが著しく傷付くことになるのは
なんとしても避けたいところだろう。
一方、メディアの方は芸能事務所との良好な関係を続けたい。
逆に言えば、芸能事務所から今後、他の所属タレントも出演させないと
言われることを恐れるわけだ。
特に力のある芸能事務所の機嫌を損ねることは営業上極力避けたい。
かくして双方の思惑が一致し、「忖度」が行われ
(芸能事務所からの圧力とまでは言わないが)、今回のような呼称が使われることになる。
怖いのはメディアのこうした姿勢が深く静かに、そして急速に広まりつつあることだ。
たかがタレントの呼称1つと思うかもしれないが、ひとたび矜持を失ったメディアは
次から次へとなし崩し的に後退していく。
気が付けば強いものに巻かれてしまい、言われるがままの情報を流し、
国民を選択肢がない「it's only」状態に導いていく。
メディアが本来果たすべき「権力の監視」を放棄すれば、それは自らの死を意味する。
その瀬戸際に今立たされているという自覚がメディアに欠如していることが怖い。
大政翼賛会のようになるなという野中広務氏の警告、遺言を我々は、
なかでもメディアに従事している人々は思い起こし、肝に銘ずべきだろう。
かつてメディアは大本営発表の情報を鵜呑みにし(強いものに巻かれ)、
国民に誤った情報を伝え、戦争への道を突き進んでいった。
いままた同じ過ちを繰り返そうとしているように見える。
野中広務、山崎拓、古賀誠といった自民党員ながらも筋を通してきた政治家が亡くなったり、
1線を退いた今、自民党や政府で活動している政治家は戦争を知らない世代、
「ノーと言えない」世代ばかり。
禅譲を期待したり、空気を読んで動向を決めてどうする。
理念、信条はないのか、と言いたい。
今、「ダメなものはダメ」と言い、「やるっきゃない」と、
それこそ「岩盤に穴を開ける」政治家はいないのか。
辛うじて野田聖子氏あたりがそれに入るか入らないかという程度だろう。
政治家がこれだからメディアは推して知るべし。
考えているのは視聴率とスポンサーのことだけ。
その結果が愚にもつかない言い分けで、国民を「ゆでガエル」にしてしまう。
立憲民主党の支持が広がりを見せているのも、筋を通さない政治、
「強いものには巻かれろ」化のメディアに対する反発からだろう。
我々は「居心地のいい社会」に慣れすぎて、あまりにも警戒心を失い過ぎている。
今必要なのは研ぎ澄まされた獣の精神を取り戻すことではないだろうか。
この頃、TVが面白くないこともあり、田舎に滞在中はほとんどTVをつけない。
せいぜい昼食時と、夕食時にニュースを観るぐらいだがニュース番組も面白くないので、最近はニュースも観なくなった。
ニュースに面白いも面白くないもないだろうと言われそうだが、どのチャンネルでも
同じような事件を同じような切り口で繰り返し流されれば面白くないというかうんざりする。
だったら観なければいいではないかと言われればその通りで、このところ福岡にいる時でもニュースさえ観なくなった。
まあ、TVに限らずメディアの画一化傾向は今に始まったわけではないが、
ますます酷くなるのを見ていると不安に駆られる。
昔、キャビンクルー(客室乗務員)が機内食を運んできて「meat or fish?」と尋ね、
「meat」と乗客が言うと「fish.it's only」と客室乗務員が答えるCMが流れていたのをご記憶だろうか。
人をバカにしたようなCM(の場面)だが、このCMの面白さ(小バカさ加減)は、
さも肉か魚を選べるような聞き方をしながら、実は魚しか選べないという点だ。
笑えないのは、こうしたことが現実世界で案外見られるからである。
一見、選択肢があるように見せながら実は選択肢がないだけではなく、
その1つのものを自分で選んだと思わせられている。
そう、カードマジックでよく見られるシーンだ。
マジックの場合はマジックと分かりながら見ているからまだいい。それでも欺されるが。
もし、これが現実世界で行われていたらどうか。
自分で選択したのではなく、選択させられていたのだとすれば。
実はつい最近、それに似たようなことを報道各社が行っていた。
TOKIOのメンバー(当時)山口達也が起こした強制わいせつ事件の報道である。
どのチャンネルも繰り返し、この事件を取り上げるのには辟易したが、
疑問を感じたのは「山口メンバー」という呼称である。
なぜ「山口達也」でも「山口達也容疑者」でもなく「山口メンバー」なのか。
恐らくこの呼称に対して違和感を感じている人が結構いたのだろう。
朝日新聞は5月11日付の紙面で<なぜ山口達也「メンバー」? あの事件、あの人の呼称は>
と題した記事を書き、次のように弁明している。
<朝日新聞ではかつて、刑事事件の容疑者を原則として呼び捨てで報道していたが、
人権への配慮から1989年、逮捕された人を原則として「容疑者」と呼ぶ方針に変わった。
書類送検の場合は、事件事故の報道の際の表記のガイドラインに基づき、
事案の軽重や当事者の属性などを踏まえて実名か匿名か、
どのような呼称にするかを個別に判断することとしている。>
一見もっともらしい説明である。
しかも「どのような呼称にするかを個別に判断する」と逃げている。
つまり明確なルールはない。
その時々で呼称を変えるから「メンバー」と表記しようと「容疑者」と表記しようと自由だ、
と言っているのだ。
第一、そんな弁明を紙面でいちいちしなければならない方がおかしい。
これがスポーツ新聞なら(失礼)まだ分からないことはない。
だが、天下の朝日新聞が、いやお堅い一般紙がわざわざ紙面を割いて
弁明しなければいけないところにこそ問題がある。
朝日新聞も芸能新聞になってしまったのか、朝日の矜持はどこへ行ったのだ、
というのは大袈裟過ぎるだろうか。
朝日新聞に限ることではなく他紙やTV各局は一様に「メンバー」という呼称を使っている。
例外は読売新聞の「容疑者」と日刊スポーツの呼び捨てだった
(もしかするとほかにもあったかもしれないが、私の知る範囲では)。
朝日新聞より系列スポーツ紙の方が余程潔い。
今回の事件は強制わいせつ事件である。
最終的には被害者と示談が成立しており不起訴となったが書類送検もされた事件だ。
しかも相手は未成年。それなのにメディア各社の「メンバー」連呼は何だ。
ここでちょっと前の事件、草彅剛氏が酔って公園で裸になったとして逮捕された事件
(不起訴)を思い出して欲しい。
公然わいせつ罪だったが、草彅容疑者という呼称が使われている。
この2つを比較するだけでも、今回の「メンバー」呼称に違和感を感じた人は多いだろう。
ついでに言うと、無理矢理キスを迫って「強制わいせつ」という表現にも疑問を感じるが、
その点は置くとしても、強制わいせつで書類送検された
(少なくとも不起訴処分になる前)段階でさえ「山口メンバー」という呼称を
連呼するのには強い違和感を感じる。
そして前述の朝日新聞のような「言い分け」を鵜呑みにしている人達がある程度いたことに対しても。
メディアによる呼称の使い方は強いものへの「忖度」である。
タレントを抱える芸能事務所にしてみれば所属タレントが「容疑者」と呼ばれるのは好まない。
タレントはイメージ商売だから、そのイメージが著しく傷付くことになるのは
なんとしても避けたいところだろう。
一方、メディアの方は芸能事務所との良好な関係を続けたい。
逆に言えば、芸能事務所から今後、他の所属タレントも出演させないと
言われることを恐れるわけだ。
特に力のある芸能事務所の機嫌を損ねることは営業上極力避けたい。
かくして双方の思惑が一致し、「忖度」が行われ
(芸能事務所からの圧力とまでは言わないが)、今回のような呼称が使われることになる。
怖いのはメディアのこうした姿勢が深く静かに、そして急速に広まりつつあることだ。
たかがタレントの呼称1つと思うかもしれないが、ひとたび矜持を失ったメディアは
次から次へとなし崩し的に後退していく。
気が付けば強いものに巻かれてしまい、言われるがままの情報を流し、
国民を選択肢がない「it's only」状態に導いていく。
メディアが本来果たすべき「権力の監視」を放棄すれば、それは自らの死を意味する。
その瀬戸際に今立たされているという自覚がメディアに欠如していることが怖い。
大政翼賛会のようになるなという野中広務氏の警告、遺言を我々は、
なかでもメディアに従事している人々は思い起こし、肝に銘ずべきだろう。
かつてメディアは大本営発表の情報を鵜呑みにし(強いものに巻かれ)、
国民に誤った情報を伝え、戦争への道を突き進んでいった。
いままた同じ過ちを繰り返そうとしているように見える。
野中広務、山崎拓、古賀誠といった自民党員ながらも筋を通してきた政治家が亡くなったり、
1線を退いた今、自民党や政府で活動している政治家は戦争を知らない世代、
「ノーと言えない」世代ばかり。
禅譲を期待したり、空気を読んで動向を決めてどうする。
理念、信条はないのか、と言いたい。
今、「ダメなものはダメ」と言い、「やるっきゃない」と、
それこそ「岩盤に穴を開ける」政治家はいないのか。
辛うじて野田聖子氏あたりがそれに入るか入らないかという程度だろう。
政治家がこれだからメディアは推して知るべし。
考えているのは視聴率とスポンサーのことだけ。
その結果が愚にもつかない言い分けで、国民を「ゆでガエル」にしてしまう。
立憲民主党の支持が広がりを見せているのも、筋を通さない政治、
「強いものには巻かれろ」化のメディアに対する反発からだろう。
我々は「居心地のいい社会」に慣れすぎて、あまりにも警戒心を失い過ぎている。
今必要なのは研ぎ澄まされた獣の精神を取り戻すことではないだろうか。