栗野的視点(Kurino's viewpoint)

中小企業の活性化をテーマに講演・取材・執筆を続けている栗野 良の経営・流通・社会・ベンチャー評論。

社会を変える3つの狂気~独裁者の狂気

2022-08-29 06:56:07 | 視点

 2つ目は独裁者の狂気である。


「独裁者」と聞いて何を想像するだろうか。暴君、暴力、強権的、弾圧等々。民衆
や反対者を暴力でもって、時には暗殺という手段も使って物理的に排除し、武力を
背景に民衆を支配する暴君、というイメージだろうか。


 独裁とは「広辞苑」によれば「独断で物事を決めること。また、特定の個人・団
体・階級が全権力を掌握して支配する」ことであり、それを行う人が独裁者と記さ
れている。ここには「暴力」とか「武力」による「弾圧」という言葉は使われてな
い。つまり独裁者=暴力的支配者を意味するわけではないということになる。にも
かかわらず「独裁者」に力による弾圧支配というイメージが付きまとうのはなぜか。

 一つには歴史上、独裁者と言われた人物は自分に反対する者を暴力的な手段で物
理的に排除してきたからで、それらは封建時代か後進国での出来事であり、民主主
義と無縁あるいは民主主義が未発達な時代や国で行われていた、行われていると思
われているからだろう。


 つまり民主主義が広まるか、文明が進めば独裁国家は過去のものとなり、独裁者
はいなくなるはず、だった。そして21世紀になると未開の地や封建国家はなくなっ
たと思われた。曲がりなりにも「文明の光」は地球上のあらゆる国・地域にほぼ届
き、残ったのはまだ「文明の光」がその国や地域の隅々まで届き切っていない途上
国ぐらいだ、と。

 これが誤解だった。技術が進み、今ではスマートフォン(以下スマホ)はほとん
どの国で使われているが、社会体制は古いままという国がまだというか、結構存在
している。それらの国はアジアやアフリカに多く存在し、そうした国の大半では民
主主義的な運営の代わりに一つの党や少数者が権力を掌握し、民衆を「指導」して
いる。


 中には形だけの民主主義を導入している国もある。複数の政党を認め、国会ある
いはそれに類する組織があり、そこで国の方針や政策等が決められる体裁を整えて
いるが、それは形式的で実際には権力党の議員が圧倒的多数を占める仕組みになっ
ていたり、権力者の意に沿わない党は議員への立候補そのものが出来なくなってい
たりするのは香港やミャンマーの例でも明らかだ。

 独裁や権力者にとって重要なのは民衆の支持を得ているという形であり、自分は
民衆の弾圧者、独裁者ではないという形なのだ。それが形だけのものであっても。
 権力者が最も恐れ、嫌うのは自分に楯突いたり、自分の立場を脅かす者である。
権力者は常に権力の簒奪を恐れ、怯えている。特にナンバー2の存在に。

 これは時代に関係なく、権力者が恐れていることのようだ。例えば毛沢東が文化
大革命を発令し劉少奇を失脚させた背景には毛の劉に対する嫉妬があったとも言わ
れている。


 中華人民共和国設立以来、「主席」として人民から慕われていた毛が第1線を退
いたのは「大躍進」政策の大失敗で多数の餓死者を出したことが関係している。そ
の尻拭いをしたのが劉少奇、鄧小平で、劉少奇は国家主席に就任した。


 毛は相変わらず中国共産党の主席ではあるが国の代表者、国家主席に劉少奇が就
いたことで「主席」と呼ばれる者が2人になった。それまでは「主席=毛沢東」だ
ったのが「主席」は毛の代名詞ではなくなったわけで、それに毛が嫉妬し、劉少奇
追い落としを画策し、路線闘争を仕掛けた側面が文化大革命の発動にはあったとい
う。

 それが主ではないにしても、嫉妬があったのは事実だろう。毛はスターリンのよ
うにされたくなかったのだ。スターリンは生前、絶対権力者として君臨したが、死
後、首相に就いたマレンコフの後を継いで首相になったフルシチョフによってスタ
ーリン批判が行われた。毛は自分もそうなることを極端に恐れ、「中国のフルシチ
ョフ」という代名詞で反対者達を粛清していった。

 似たようなことは経済界でもよくある。強力なリーダーシップを発揮し企業を発
展させてきた創業者の下に後継者が育たないのは創業者の嫉妬によるところも大き
いだろう。


 内外に「後継者」と発表されたナンバー2が次々に企業を去った例はあるし、ト
ップ(CEO)を譲ってはみたものの、結局自分が返り咲き代表取締役会長兼社長に
就任してすでに10年以上などという例は枚挙に暇がない、とまでは言わないが、こ
こで社名を言うまでもなく結構目にするはずだ。

 最高権力者が望むのは自分に付き従う者で、自分の立場を危うくする、あるいは
自分と並ぼうとする者は認めることが出来ない。それ故、敵に対するより内部の反
対者に対する闘争の方が激しく、陰惨である。


 金正恩が父親の跡を継いでトップの座に就いて間もなく近親者を次々に暗殺、処
刑していったのも同じで、粛清が一通り終わると周囲に残るのはイエスマンだけで、
常に最高権力者を賞賛する声が万雷の拍手とともに送られる。

 それでも安心できないのが絶対権力者で、次に着手するのが憲法を改正し、自ら
の任期を延ばすことだ。中国の習近平もロシアのプーチンも同じ手順で進んだ。そ
して日本でも任期を延ばした人物がいる。政界だけでなく経済界にも。


 つまり自らがトップの座にいる時に法や制度を変えて任期を延ばそうとしたり、
延ばした者は独裁への道を歩もうとしていると見て間違いない。それを阻止し、法
や制度を順守させるのが独裁者を生まない最後の砦になる。

 権力は魔物である。一度でも、わずかでも手に入れれば、さらに、もっととなり、
欲望は尽きることがなく、自制することが出来なくなる。しかも悪いことにという
か、都合がいいことに、声高に聞こえてくるのは自分を称賛する声ばかりだ。これ
ではまるで人々が自分の君臨を望んでいるかの如く勘違いする。


 故に法や制度を変えて在任期間を延ばそうとする企てには絶対に賛成してはいけ
ないのだが、今世界はそうなっていない。

 狂気が独裁を生むのか、独裁が狂気を生むのか。今、世界で支配的になりつつあ
るのは独裁である。独裁と言っても一部の国を除いて武力でもって弾圧するハード
独裁ではなく、非武力的なソフト独裁と、それを支持あるいは歓迎する独裁土壌の
広がりである。


 これは言い換えれば民衆側の独裁を歓迎する狂気、熱狂的な支持で、それは何も
独裁国家に限ることではなく民主主義国家でも起きるだけに危険だ。

 民主主義は極めて脆いものである。なぜ脆いのか。それを守り、維持していくに
は一人ひとりがかなりの労力、脳力を要するからだ。ともすれば人は誰かに決めて
もらいたがる。特に国の進路や世界の有り様などの大きな問題に関しては。


 そんな大きなことは自分ではなく他の誰かが考え、決めてくれた方が楽だから。
自分で一から考えるのは面倒臭いし大変だ。それより誰か、国のリーダーが道筋を
決め、それに対し賛成、反対などを言う方がはるかに楽ではないか。当然、自分の
責任も回避される。かといって言いなりになっているわけではない。いろんな情報
を収集し、自分なりの意見を持ち、自分の考えに近いか同じ意見の人間を支持して
いるだけに過ぎないと思い込んでいる人が増えている。

 自分の頭で考えることを避けているわけで、デジタル時代になり世界中でその傾
向が増えている。スマホがその傾向をさらに加速させているのは言うまでもない。
なぜか。スマホの小さな画面で長い文章を読むのは苦痛だから、情報の発信側もス
マホ用を意識し極力簡単な言い回し、二者択一的に書いていくから、ますます自分
の脳を使わなくて済む。

 結果、人々の脳力は落ち、極端な意見に染まりやすくなっている。狂気に染まり
やすい、狂気を受け入れる土壌がこうして出来上がっているが故に、文明が発展し
ている国で独裁者が登場してくるし、それを待ち望むようになる。独裁者という言
葉を「強いリーダー」という言葉に置き換えれば、もう少し身近に感じられるだろ
うか。

     「社会を変える3つの狂気」は2022年4月25日に執筆したもの

      全文はHP(http://www.liaison-q.com/kurino/Crazy3.html)にアップしています。