![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/4b/de/4867f74a1cd25fc2d5fed046028f6bc2.jpg)
藤の花が見頃だ。藤棚の藤もきれいだが、山に咲く山藤もきれいである。
いままで三つ葉ツツジも山藤もその存在すら知らなかったが、あれが三つ葉ツツジ、これが山藤と教えられると、以来行く先々で目に付くようになる。
つくづく人間の目は便利に出来ていると思う。
それまでは見えていても気付かないものが、意識した途端に視えてくるようになるのだから。
人間の目を模したカメラのレンズにはこんな芸当は出来ない。
せいぜい焦点を合わした物以外をぼかすぐらいが関の山だ。
「見える」と「視える」は違う。
大事なのはいかに「視る」かということで、漠然と「見」ていても何も視えてはこないだろう。
「視る」時に必要なのは自分の視座、つまり価値観である。
きちんとした価値観を自分の中に持たない人は物事を見ていも、ただ見(え)ているだけで実際には何一つ視えてないのと同じことである。
私は講演の時などにこのことを例えて英語のseeとlookの違いだとよく言っている。
いままで三つ葉ツツジも山藤もその存在すら知らなかったが、あれが三つ葉ツツジ、これが山藤と教えられると、以来行く先々で目に付くようになる。
つくづく人間の目は便利に出来ていると思う。
それまでは見えていても気付かないものが、意識した途端に視えてくるようになるのだから。
人間の目を模したカメラのレンズにはこんな芸当は出来ない。
せいぜい焦点を合わした物以外をぼかすぐらいが関の山だ。
「見える」と「視える」は違う。
大事なのはいかに「視る」かということで、漠然と「見」ていても何も視えてはこないだろう。
「視る」時に必要なのは自分の視座、つまり価値観である。
きちんとした価値観を自分の中に持たない人は物事を見ていも、ただ見(え)ているだけで実際には何一つ視えてないのと同じことである。
私は講演の時などにこのことを例えて英語のseeとlookの違いだとよく言っている。