リタイア暮らしは風の吹くまま

古希を迎えて働く奥さんからリタイア。人生の新ステージで
目指すは悠々自適で遊びたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

理想は永遠に健康な50歳?

2013年09月15日 | 日々の風の吹くまま
仕事を放り出して、カレシと早い寝酒をやりながらDVDなんか見てしまったので、起床
はほぼ午後1時。昔、まだ新婚気分だった頃に2人で見ていたイギリスのテレビ番組で、
PGウッドハウスの短編をベースにした毎回完結ドラマ。棘やら親愛やら何やらと深い
含みのあるイギリス流のユーモアが満開で、昔はワタシには微妙すぎて、ひとり爆笑し
ているカレシを横目で見ていたことがあったけど、30何年経って、2人で笑いこけなが
ら、ああ、私たちって「笑のツボ」が同じなんだよね~と再確認。

まあ、38年も一緒に暮らせば何かと似て来て不思議はないけど、それは共有体験の
積み重ねの結果なんで、共有できることが多いほど「年季」の入ったカップルになるん
だと思う。でも、どれだけ共有できるかは日常を重ねてみないとわからないから、夫婦
の老後の形なんか、結婚して一緒に年を取ってみないことにはわからないってことか。
「敬老の日」に因んだ統計によると、日本では65歳以上が人口の25%に達したそうな。
働いている人の割合も就業人口全体の9.5%で、60代後半では、男性は半分近く、
女性も3割近く。働く事情は人それぞれとしても、ベビーブーム世代はまだまだ元気だ
ということだな。いいことじゃないの。

最近アメリカのネット調査で、「ある年令のままで永遠かつ健康に生きられるとしたら、
何歳がいいか」と質問したら、何と平均して「50歳」だったそうな。若い世代では概ね各
年齢層の上限あたりだったけど、ベビーブーム世代(北米では49歳~67歳)は55歳、
68歳以上では67歳だった。おもしろいのは「永遠に生きたい年令」の男女差で、男性
が平均47歳、女性が平均53歳。「女はいつまでも若くありたいと思うもの」という常識
を覆すような結果だけど、何歳をもって「若い」とするかは永遠の謎だから、怪しいのは
常識の方だと思うな。

でも、男性の40代後半は「男の更年期」が近づく時期で、女性の50代前半は更年期
が過ぎた時期であることを考えると、おもしろい男女の心理が見えてくる。つまり、男は
いつまでも(セックスができる)「男」のままでいたいのに対して、女は妊娠、出産、子育
て(ついでに夫の世話も)という「課業」が終わった後は心身の自由を謳歌したい・・・と、
まあ、突き詰めるとそんなところじゃないのかな。はて、日本で同じ調査をしたら、日本
人が永遠に生きたい年令は果たして何歳と出るか・・・?

☆二十一世紀は復讐の世紀になるのか

2013年09月14日 | 日々の風の吹くまま
10月13日。バンクーバーではどこへ行ってもヒジャブやターバン、サリー姿の人たちに普通に出会う。多民族多重文化国家を標榜する国だから、街を歩く人間は色も形もサイズも思想も宗教も、実に多種多様。ワタシはカナダのそういうところが好きだし、生理的に居心地がいいと感じる。バンクーバーではいわゆる「visible minority」が人口の半分を占める勢いで、次回の国勢調査ではほぼ確実に「visible majority」だろうな。このVisible minorityというのはカナダでの造語で、「(見ただけで)白人でも先住民でもない(と識別できる)人」のこと。市民も永住者も世代も関係なく、アジア系もアフリカ系もインド系もアラブ系もみんなこの範疇に入る。

でも、minorityが文字通り「少数」でいるうちはいいけど、人口に占める割合が高くなると、社会の水面下で様々な反感や差別感情が交錯するようになるだろうし、自らの意思でカナダに移住して来たのに、その社会との融和を拒む特異な集団に対する猜疑心や不信感がもやもやして来るだろうな。まあ、地球上の人間の流動性が高まった現代では、世界のどこでも多かれ少なかれそういう風潮はあると思うけど、それが政治的思惑、社会的思惑、あるいは少数集団自体の言動、集団同士の対立や確執、あるいはメディアの影響といった「空気」に曝されているうちに「ヘイト」と呼ばれる感情として固まると、よくもそれほどまで憎悪を燃やせるもんだと思うくらいに燃え盛るから怖い。

ワタシにも「嫌いな言動」はあるけど、能天気すぎるのか「嫌いな人」にはまだ遭遇したことがない。何となくしっくりしない感情を持つことはあっても、顔を見るのも声を聞くのもその人の名前を聞くのも、とになく何もかもがイヤというような強い嫌悪感を持ったことはないと、天地に誓って言える。それでも、「嫌い」という感情はわかるし、自分を不安、不快にさせる人を排除したいという気持も一種の「防衛本能」として理解できるけど、自分とは直接関わりのない人に向けられる激しい憎悪の感情は想像することすらできない。もっとも、人間のは、自分の心の中に閉塞感や不安、嫉妬といった重たい感情が堆積して来て、意識していなくてもその重みに耐えられなくなると、自分の外に「嫌いなもの」を必要とするものらしい。

だって、ネガティブな感情を抱え込んでいる自分を嫌いだと思うのは、フーテンの寅さんじゃないけど「それを言っちゃあおしまいよ」。だけど、ネガティブな感情はどろどろとわだかまって、重い。自己嫌悪はそれに輪をかけて重い。たとえ他人を蔑視することで気持がすっきりすることがあっても、それは一瞬のことで、ポジティブな感情が与えてくれるような高揚感はないだろうな。そこで、重くなる「心のお荷物」を自分の外へ放り出して、気持を軽くする必要が出て来るんだろうと思う。(この「荷下ろし」は、いわゆるモラハラの加害者によく見られる心理パターンだと言われている。)

さて、お荷物を他人に転嫁するとなれば、感情的に反撃して来そうな人は避けた方が無難。自分の感情をうまく処理できないでいるんだから、相手の感情まで背負わされたら自分が潰れるかもしれない。だから、自分とは精神的な関わりのない人や自分が属していない集団、殊に自分とはかけ離れた特徴を持つ人や集団に向けるのが安全。他の人たちも嫌っている(らしい)特定の人や集団があれば、みんなの嫌悪感を結集してその特定の人や集団に向けられて、自分はいっそう安全。「だって、みんなそう思ってるんだから」と、自分の負の感情を正当化して、自分は普通なんだ(よかった)と肯定できる。ワタシには安心感を求めているように見えるんだけど、そうだとしたら、みんなさびしいんだな、きっと・・・。

日本では今「倍返し」と「土下座」が流行しているらしい。テレビの人気ドラマから広まったと言う話で、そのドラマというのはどうやら「復讐もの」らしい。銀行が舞台の権力争いがテーマらしいということしか知らないけど、驚異的な視聴率だったとか。小町横丁で「倍返し」という言葉がやたらと目に付くようになったのも、このドラマの影響と言うことか。「やられたらやり返せ」は幼稚なけんかだと思うし、テロに対しては「さらなるテロを助長するからやめろ」の大合唱になるけど、倍にしてやり返すとなると「片目には両目を」ということなのかな。それだけでもぞくっとするけど、さらに「土下座して謝罪」を強要するとなると背筋が凍る感じがする。恨みのある相手に屈辱感を味わわせることで快感を得る。これが悪意の意趣返しでないというなら、何なの?

でもまあ、そういう意趣返しの手段としての土下座の要求は今さら人気ドラマから生まれたものではないけどね。小町横丁ではだいぶ前から「夫婦の問題解決(復讐)手段」としてよく登場する。つまり、不倫夫を懲らしめるために、土下座させて、謝罪させて、始末書を書かせて、それを公正証書にするというもので、それで妻の気持が晴れればめっけものだけど、実際に元の鞘に「丸く」収まった夫婦がどれだけいるのかは疑問だな。復讐と許しは別物で、復讐心から許す気持は生まれて来ないから、妻は恨みや疑念を引きずりそうだし、夫は「倍返し」で土下座させられた屈辱を晴らそうと企みそうだし、どっちもそれまで以上に重い「心の荷物」を抱えて、結局は破綻するしかないんじゃないかと思うけど。

自分の心の荷物(問題)は、それが「殺せ」という憎悪の形であれ、「やられたらやり返せ」とう復讐の形であれ、他人に転嫁したところで何の解決にもならないのにね。だけど、その荷物を自分で解くのは文字通り荷が勝ちすぎて、自己肯定と言う「安心感」を外に求めるしかない人たちにとっては、他人に投げつけるのが一番楽な手段なんだろうな。もしかして、これからは遺恨は倍かそれ以上にして返し、土下座して「謝罪」させることで溜飲を下ろすという世の中になるのかな。それでは、いじめも、テロも戦争も何もなくならないよね。アメリカでのテロの後、ビンラーデンは犠牲者を悼んでいるアメリカがイスラムに改宗すれば「許してやる」と言ったけど、あれも土下座を強要するのとさして変わらない。

まあ、人間は何千年、何万年と「やられたらやり返せ」を繰り返して来たわけで、精神的に「もうダメ~」という状態になったときにはそこへ回帰するしかないのかもしれない。どうして「live and let live」(自分も生き、人も生かせ)じゃダメなのかなあ・・・。


簡単に国際化というけれど

2013年09月14日 | 日々の風の吹くまま
きのう、おとといの夏の陽気は終わったらしい。ポーチの温度計は午後2時で15度で、
まあ平年並み。この週末もまた「置きみやげ仕事」。でも、日本は「敬老の日」の三連休
なんでしょ?だったら、ワタシも敬われてしかるべきシニアなんだけどなあ。なのに、や
たらと小難しい仕事の置きみやげって、全然敬われてない感じなんだけど。まあ、1年
のうち1日だけ(年老いた織姫みたいに)敬ってもらうより、お金になる仕事をもらった方
がお得ではあるけど。

納期まで正味3日あるもので、徐々に「遊び」モードから切り替え。ジャパンタイムスに、
日本人にとって「国際化」とは何なのかという趣旨のおもしろい寄稿記事があった。国
際化がテーマのあるシンポジウムで、主催者が世界から集まった若者に「日本企業の
すごいところは何か」と質問したとか、テレビの旅行番組も、世界の国々やそこに住む
人たちの歴史や文化などへの関心よりも、「外国に住む日本人」が中心のものが多い
とか・・・(国際化したからじゃない?)。

その例が『世界なぜそこに日本人』と『こんなところに日本人』という番組。ワタシは日本
のテレビ番組は見ていないのでわからないけど、リポーターやタレントが外国の大都会
から遠く離れたところに住む日本人を探して会いに行く形式になっているらしい。筆者
によると、こうした新手の旅行番組でも、登場する日本人個人のことよりも日本で見て
いる視聴者の「期待感」に応えるような内容になっていて、これではただの人気取り番
組だ、と。(旅行番組と行っても、要するに、「タレントの旅行」を見せるもので、国際化と
は関係ないような・・・。)

ビジネス関連の翻訳原稿にしょっちゅう出て来る、この「国際化」。しっくりしないと感じ
つつ、あっさりと「internationalization」と直訳してしまう。でも、日本語原稿で日常的に
使われる「国際化」と、日常的には使われない「internationalization」とでは意味合い
が違うような感じがしていた。でも、この記事を読んで、字面からは同等の単語に見え
ても、やっぱり2つの言葉は「概念」そのものがまったく違うのだと、納得。と言っても、
ワタシが解釈した日本語の「イメージ」にぴったりする英語を思いつけないから「苦手感」
は消えそうにないけど、目の前の仕事は無味乾燥な契約書で、「国際化」モンスターは
出て来ないだろうから、安心して取りかかるか。

自分のお金の行方は自分で決めたい

2013年09月13日 | 日々の風の吹くまま

相続の話で「夫の財産、夫の財産」と妻たちが書いているのを見て、夫婦が一緒に築
いて来た「共有財産」なら、なぜ生存者権付きの共同名義にしないのかと不思議だった
けど、どうも日本ではそれができないらしい。へえ、夫婦・家族が社会の最小単位だと、
個人を否定する集団主義思考を押し付けておいて、相続税を取るときだけはしっかり
「個人単位」なんだ。なんか矛盾してない、これ?そこで考えた、相続法で杓子定規に
遺産の配分比率を決めているのは、法律婚の保護は「建前」で、「本音」は相続税を取
りこぼさないためにじゃない、と。

カナダには「相続税」なるものがない。みんな「所有財産をすべて処分して死ぬ」ことに
なっているので、まず死んだ人(の代理)が所得税の最終確定申告をして、払うべき税
金を払って、後に残った分が遺産になる。この遺産から借金などを清算した残りを相続
人に分配するわけだけど、原則として個人が遺言で自分の財産の処分を生前に指示
しておく、いわば「自己責任」制になっているので、相続法の規定が適用されるのは遺
言状を書かずに死んだときだけ。

もちろん、遺族は遺言状に異議を唱えることができるから、超若い嫁さんをもらった大
金持じいさんの遺産を巡る争いがよくあるけど、普通の家族は、夫も妻も各自が家族
の事情に応じて遺言状で配分を決めている。自分で決めるから、元妻や愛人にも少し
分けることも当然できるけど、それが不服なら訴訟を起こせばいいだけの話。無遺言
の場合は、カナダでは相続法は州の管轄なので、法律婚、事実婚、同性婚の区別がな
いのはどこも同じだけど、「相続権」と配分の規定は州によってまちまち。

個人の裁量に任せても問題があまりないのは、一般に夫婦が持ち家を生存者権付き
の共同名義にして、銀行口座も全部か一部を同様にする場合が多いからだと思う。こ
れだと(債務も共有になるけど)名義人の一方が死んでもその「遺産」には入らないか
ら、死亡証明書1枚でそっくり「生存者」の名義人のものになって、税金や相続が発生
するのはその人が死んだとき。ついでだけど、カナダには有責配偶者の概念も慰謝料
の制度もないから、もしも夫が不倫に走ったら、精神的な苦痛は訴訟で損害賠償を取
るしかない。だいたいは婚姻中の財産を二分して離婚、後は(自己責任で)勝手にやっ
てね、となる。まあ、共働きが普通の今は妻にもそれなりの経済力があるからできるこ
とかもしれないけど。

私たちには遺産を残す子供がいないし、めぼしい財産はすべて生存者権付きの共同
名義になっているので、法律で配分してもらうような遺産はないからと、今までのんきに
遺言状を書かずに来たけど、「生存者」が死んだときに残っているかもしれない財産を
何だかんだと政府に取られてしまうのは嫌だから、そろそろ遺言を書かないとね。散々
税金を取ってきた政府に遺産まで残すなんて、ムカつかない?

見たくないものを見ちゃった

2013年09月12日 | 日々の風の吹くまま
例の相続差別違憲判決に関するトピックは百家争鳴のうちに「受付終了」になったけど、
しまいにはこんな恐ろしい人たちだったのかと、ぞ~っとした。これが「建前」と「本音」
の二面構造になっている日本的価値観の典型なのかな。「法の下の平等」は上から
(あるいは欧米から)押しつけられた「建前」であり、自分の本音(感情)こそが正しい価
値観と言わんばかり。まあ、「建前」と言う集団の都合に縛られて、本音を言わせてもら
えないことが多いから、匿名の場で思い切り本音を吐露しているんだろうな。

昔から「建前は美しく、本音は醜い」と思っていたけど、まさにそれが事実であることを
見せつけられたような気がした。英語には「建前」にぴしっと当てはまる単語がないけど、
一番近いところで「façade」というのがある。元々は建物の装飾した表構えを意味する
フランス語だけど、抽象的に言えば「外面」とか「見かけ」、往々にして「見せかけ」で、
良い意味には使われないな。本音は醜いのも美しいのもあるけど、醜い「建前」がない
のは、それが世間に向ける顔だから。つまり「外面がいい」ということ。(精神的暴力の
加害者も概して外面がいいんだけど、遭遇したことのない人にはわからないか・・・。)

まあ、日本の幸福度や自由度のランクがどうしていつも低いのか、その理由がわかっ
たようなトピックだった。自分を幸せと感じられない人が実際に多いということだろうな。
自分の現状に対する漠然とした不満や不安を他人に懲罰感情を向けることで宥めてい
るようにも見えて、傍観者のワタシでさえ背筋が冷える思いがしたし、「個人」を社会の
最小単位とすることを認めない集団主義の根強さと人権意識のなさに愕然としたし、判
決を批判している人たちの差別感情の根の深さに慄然とした。相続法と言うお金に絡
む問題が根底にあるからよけいにどろどろしたものになるんだろうけど。

ずっと、これはワタシが生まれて育った日本とは違う、ワタシが親しくしている日本人と
は違うと自分に言っていた。でも、ワタシが覚えている日本が外面でしかなかったんだ
としたら、これが今の日本なんだとしたら、何だかゾンビのような、怖いから見たくない
ものを見てしまったような気がする。

☆相続差別違憲判決と女の本音

2013年09月11日 | 日々の風の吹くまま
9月10日。先日、日本の最高裁判所がやっとのことで「婚外子」の相続差別を憲法に違反すると判断をした。何ごとも正すに遅すぎることはないけど、100年以上も前の明治の時代から頑なに守り通して来た「法による差別」を、やっと、それも全員一致の判断で「法の下では何人も平等である」という日本国憲法の大原則に反すると認めたわけで、司法も行政もカタツムリ並みの日本としては画期的なことだと思う。

ずっと前に違憲訴訟が起きたとき、ワタシは当時衛星版を購読していた読売新聞に「子供は親を選んで生まれることができない。子供が自ら選ぶことのできない事由に基づいて法が差別するのは憲法どころか、人道に反する」と書いて送ったら、読者投稿欄に掲載されたことがあった。そのときは「合憲」という判断で、今回やっと不条理な差別がひとつなくなると思ったら、小町横丁では「納得が行かない」という人たちが大騒ぎ。まあ、あそこはすぐ慰謝料請求!とわめく人が多いから意外ではなかったけど、ずらりと並んだ違憲判決批判の書き込みがあまりにも感情的で、被害者意識丸出しなもので、驚いたというよりも、暗澹とした気分になった。

今回の争点は、何の選択権もなく(大人の都合で)婚外子として生まれた子供を、民法において「父親を同じくする」婚内子と差別することが「法の下の平等」を決めた憲法に照らして正しいのかどうかであって、婚姻制度や妻の地位や男女の倫理観がどうこうという話じゃないはずだけど、「婚外子として生まれて来た「罪」を法による差別で罰するべきで、それが婚外子の出生によって傷ついた妻や婚内子の心の支えになる」、「(自分の夫の)不倫・浮気相手の女とその女が生んだ(夫の)子に(自分の)財産をやりたくない」、「夫の世話も親の介護もしないくせに遺産相続の権利を主張できるのは不公平」、「夫婦の共同財産なのに不倫女とその子に横取りされるのでは結婚する意味がなくなる」、「資産のある男を騙してでも妊娠したもの勝ちになる」。まさに「女の敵は女」の様相。はては「欧米の個人主義の猿まねだ」、「日本社会の最小単位が(欧米流の)「個」に向かう」と、近頃よく見かける国粋主義的な臭いのする発言まで飛び出したのは、右傾化の波が掲示板にまで忍び寄って来ているということか。

「子供」を「人間」に置き換えてみるといい。地球上の誰も特定の人種に生まれることを選べないし、特定の人種に生まれついたことを変更することもできない。どこかの国が「日本人」という理由で、その国の法律によって差別をしたら、どう思う?日本のどこかで法律で公共交通機関の利用は「日本人のみ」と規定していたら、当然だと思う?もちろん、人間は差別する動物なので差別意識は誰にでもあるし、どこにでも多かれ少なかれ差別はある。でも、法治国家ではその差別が「法の下での平等」に反する場合は法律によって禁じている。日本では逆に憲法で「平等」を保障する一方で、「民法が法律婚を採用しているから婚外子の差別は不合理ではない」と、法律の差別規定が国家の基本たる憲法を超越し得ると言って来たのを、最高裁判所がそれはおかしいと判断したということ。

それにしても、この人たちは恐ろしいほどvindictiveなんだね。「懲罰的」という形容詞だけど、「人を痛めつけてやりたいという悪意に満ちた報復願望と」いうニュアンスの強い処罰感情を持っていること。元々自分が選んだ夫が下の方のだらしない男だったというだけの話なのに、裏切りの恨みが相手の女と生まれた子供(夫の実子だよ)だけに向いて、「父親」の責任追及がないのが不思議。結婚も浮気も不倫も子作りも「2名様で催行」のパッケージなんだけどな。まあ、日本の伝統的家族観を守るとか言って婚外子差別を擁護して来た政治家、いや社会全体のどれだけが(一夫一妻の)「法律婚」を尊重して行動を慎んで来たのか、なんてことは聞くだけ野暮ってもので、小町横丁の掲示板にも夫(妻)の浮気や不倫、恋人の二股や心変わりの相談事がずらり。だいたい性的倫理観を法律で規制することは、どんなに理想的な法治国家でもムリだと思うけど。

このトピックで違憲判決は納得が行かないと鼻息を荒げている「妻」たちは、まるで自分のダンナが「他の女に騙されて不倫して、子供を作られて、財産を乗っ取られる」という前提に立って議論をしているようで、結婚の相手として選んだ夫を愛しても信頼してもいないような印象なんだけど、どうなの?でも、「実父」の遺産に対して相続上の同等を求める婚外子(を生んだ女)が金目当てという言うんだったら、法律婚さえすれば夫の収入や財産は自分のものと思っている妻も結局は金目当てになるんじゃないの?ま、相手の年収がどうのこうの言う今どきの日本女性の結婚に関する価値基準も「お金」みたいだから、突き詰めるとお金、お金、お金。それを「損をしたくない」、「人が得するのは許せない」という感情が煽っているということか。

人を「平等」に扱うということは、少なくとも出自には関係なく人はみんな人間として同じ「価値」を持っていることを認識して、それぞれを「個人」として、また、違いがあってもそれを「個性」として尊重することだと、ワタシは解釈するけど、「平等=金太郎飴」であり、金太郎と桃太郎と与太郎では人間の価値が違うから差別は当然という解釈も存在するということかな。この人たちの人権意識の欠如や自分では意識していない根深い差別意識が図らずも露呈したとしか思えない。これが本音なんだろうけど・・・。


犬かき式英語学習法

2013年09月11日 | 日々の風の吹くまま
カレシは、午後の英語教室の生徒から、博士課程の留学のために会話力を伸ばした
いという中国の大学院生を紹介されて、これ以上生徒を増やすとしんどいし~、日常に
支障が出るし~と思案投げ首。一応、英語力が必要な理由を説明してもらったら、戻っ
てきたメールはもろに論文英語。でも、そういうジャンルの英語しかしらないのかもしれ
ないよ。「でも、書き言葉と話し言葉の違いくらいは教えないのかなあ」とカレシ・・・。

だいたいが学校と言う環境で教科書を使って教えるし、英語の先生が話せなかったり
するから、句動詞だらけの日常会話なんか習わないでしょ。「それで、文法と発音が完
璧にできれば会話ができると思っている人が多いのかな」。でも、スピーキング=会話
じゃないよね。いくら発音や文法が正確でも、話すことが何もなければ会話は成り立た
ない。逆に、世の中のことをちょっとずつでも知っていれば、あるいはちょっとでも興味
を持ってみれば、発音や文法に多少の難があっても会話に参加できる。でも、これは
「語学力」じゃなくて、人間関係の領域と思うけど。

もう昔のことで覚えていないんだけど、ワタシがカナダに来たばかりの頃の英語はどう
だった?「発音や文法より、まず抑揚や言葉のつなぎ方が典型的な日本人英語だった
な」。え、そうだった?「それが半年くらいでいつのまにか普通の英語の抑揚でしゃべっ
てたなあ」。へえ、そうだったんだ。まあ、「英語環境」という海にどぼんと放り込まれた
わけで、犬かきでもいいから泳ぐしかなかったんだけど。だって、店でもどこでも「スピー
キング」の練習に行くわけじゃないでしょ?生活上の「目的」があって、英語でやりとりし
ないとそれを果たせないから、耳をよくかっぽじって、そしてしゃべりまくるっきゃなかっ
たということ。

学習って個人差が大きいし、ワタシは音痴なはずだけど意外とリズム感覚のようなもの
はあるみたいだし、おまけに話したがりやと来ているから、そういう実践的とも言える
「勝手に覚えれば?」式の突っ放し学習法が一番効果的だったのかもね。

英語の句動詞は手ごわいよ

2013年09月10日 | 日々の風の吹くまま
今日はコーヒーもないし、オレンジジュースもないしのないない尽くし。どっちもカレシの
「担当」なんだけどなあ。パンも残った端っこを何とか2枚に切ったのはいいけど、薄す
ぎて黒こげ。煙探知器の警報が鳴り出して、窓を開けるやら、ファンを回すやら。しょう
がないから、サンドイッチ用の丸パンをスライスしてトーストして、ティーバッグの紅茶で
朝食・・・。

ワタシはコンタクトの洗浄液と化粧品を買いに歩いてモールに行くつもりだったので、カ
レシは買い物に便乗して、ワタシはトラックに便乗。いつもそうだけど、足があるとつい
買うものが増えてしまうなあ。コーヒー豆はいつも買うのを1袋と、予備としてお徳用の
大袋と、予備の予備として冷凍しておく分を1袋。予備を解凍して使って、補充しなかっ
たから品切れになったわけで、予備の予備があれば大丈夫・・・かな?

夕食後は、旧ブログで極楽とんぼ流饒舌ぶりを発揮しているワタシの後ろで、カレシは
スカイプ英語レッスン。いつものように「Slow down(もっとゆっくり)」を連発している。ど
うもみんな会話のレベルがある程度上がると早口でしゃべろうとする傾向があるらしい。
聞くともなしに聞いていると、いつの間にか「phrasal verb(句動詞)」の話。句動詞とい
うのは、goとかtake、getといった中学で習う動詞の後ろに前置詞や副詞がくっついて
いて、ちょっと見には簡単そうだけど、実はなかなか手ごわいしろもの。

オランダ語やドイツ語には複合動詞というのがあるそうだけど、2つか3つの単語でひ
とつの「単語」の働きをするので、動詞からは想像できないような意味になったり、2つ
で1語のはずなのに間に別の単語が割り込んだり。そういう厄介なものなのに、英語人
の日常会話はほとんどが句動詞と言えるくらいで、教科書で「文語調」英語をみっちり
勉強して来た人には動詞は聞き取れるのに話の内容がわからないという現象が起きる。
今日のカレシのアドバイスは、全部暗記して、使って身につけるしかないよ。うん。でも、
たくさんあるから、暗記は退屈だよ・・・。

☆秋の味覚、松茸づくし

2013年09月09日 | 日々の風の吹くまま
9月8日。ひと仕事が終わった後の日曜日。日本はまた三連休らしくて、仕事前線は静か。約束した通り、今日は金曜日に
Hマートで買って来た松茸をふんだんに使ってご馳走を作ることにした。食材を物色しがてらフリーザーの霜取り
をしながらつらつらと考えるに、松茸はヘンにいじるよりも、「日本の伝統」に沿ったほうがおいしい。ということで、
極力「ニッポンの味」で・・・。

今日のメニュー:
 アミューズブーシュ(松茸ときゅうりのポケ風)
 松茸のどびん蒸し風
 松茸のフライ
 松茸ご飯、松茸と豆腐のお澄まし

[写真] 出汁をとったり、下ごしらえをしてから、まずはアミューズブーシュ。松茸1個とカレシ菜園で採れたアジア系きゅうりでベジタリアン風ポケ。刻んだ松茸はさっと炒めて、同じように刻んだきゅうりと混ぜ、にんにく入りマヨネーズで和えた。スパイスは粉山椒とゆず。ほんのひと口・・・。

[写真] 次に、「どびん蒸し」風。(どびんがないから、ふた付きの一人用キャセロールを使う。)松茸3本とぼたんえびはいずれも地元の産。松茸をスライスして、お酒をかけておいて、ぼたんえび2尾ずつの殻を剥いて、準備完了。料理本には「みつば」を入れると書いてあったけど、こっちにはないからコリアンダーで代用。意外にいい味になった。すだちを添えると書いてあったけど、かぼすの果汁をさっと振り込んだ。うん、おいしいの何のって・・・もちろん、松茸のお手柄なんだけど。

[写真] カレシが好きな松茸のフライ。1本あたり4枚の厚めのスライスにして、粉、溶き卵、パン粉とつけて普通に揚げるだけだけど、食感が何ともいい。カレシ菜園のトマト、きゅうり、パセリで飾って、チリソースを添えてみた。

[写真] 
メインコースは松茸ご飯と、松茸と豆腐のお澄まし。最初は魚料理にご飯を添えようと思ったけど、全体の量が多くなりすぎそうなので、ボツ。ご飯はいつもの麦入り玄米じゃなくて、白米のご飯。初めのコースを食べる頃から炊き始めて、フライを食べ始める前に松茸を加えて、ちょうどいいタイミングで炊き上がり。蒸らしている間に、松茸の最後の1本ときのうチゲを作った後に少しだけ取っておいた豆腐でお澄ましを作る。フライの溶き卵の残りに線切りにしたにんじんとねぎを混ぜ、貝割れを載せて即製の卵焼き。

ちょっとぜいたくな「松茸づくし」で、とうとうパックに8本か9本入っていたのをぜ~んぶ食べてしまった。香りや形で日本産にはかなわないだろうけど、カナダの松も捨てたもんじゃなくて、それなりにおいしさいっぱいの秋の味。ああ、満腹の食欲の秋・・・。


幸福度はどのくらい?

2013年09月09日 | 日々の風の吹くまま
国連が世界150ヵ国の幸福度ランキングを発表して、カナダは前回の5位から下がっ
たものの、1位のデンマークを始めとする北欧諸国に次いで6位。お決まりの1人あた
りのGDPや平均寿命の他に、頼れる人がいること(絆のこと?)、人生における選択
の自由、汚職の多寡、気前の良さといった項目で評価したそうで、カナダはどれもスコ
アが良かったとか。

いつも何だかんだと文句たらたらのカナダ人だけど、けっこう社会や人生に満足してい
るってことで、それはワタシも常日ごろ肌で感じているカナダのいいところ。たしかに社
会、経済、政治、個人の暮らしすべてにおいて諸々の問題はあるけど、人類という生物
種のやることは地球上どこでも同じだから、起きる問題も上は国から下は個人まで根
本的に似たようなもんで、違うのは政治や社会、(宗教を含めた)文化、そして個人がそ
ういう問題にどう対処するかだと思う。社会における個人の自由度が高いほど幸福度
のスコアが高くなるとか。

日本の新聞記事はまだないようだけど、日本の幸福度ランキングは43位。世界3位の
経済大国だし、平均寿命もトップだし、同じ国連の「人間開発指数」でも上位にランクさ
れるのに、日本はOECDの「幸福度指数」でもいつも低めで、日本の人はあまり幸福
じゃなさそうに見える。まあ、無味乾燥な統計データから弾き出した幸福度なんか意味
ないと言われればそうかもしれないけど、経済的に豊かで長生きで人と人の絆を大事
にして思いやりがあって自由のある国としてはもっと上位にランクされていいんじゃない
のかな。

でも「主観的幸福感」という調査では、日本は統計データによる「幸福度」よりもずっと
低い結果だったらしい。「主観的自由度」でも、日本は独裁政権や軍事政権が支配する
国々よりも低いランキングだったそうだから、「個人」が基本単位以下の存在にみられ
がちな日本はこのあたりで幸福度の点を下げているのかもしれない。個人主義は欧米
の思想だから日本には合わないと言うのなら、それでもいいんだろうけど。

秋だ、松茸づくしで行こう

2013年09月08日 | 日々の風の吹くまま
ひと仕事が終わったので、約束通り、今日は金曜日にHマートで買って来た松茸をふん
だんに使ってご馳走を作る。ついでにフリーザーの霜取りをしながらつらつらと考える
に、松茸はヘンにいじるよりも、「日本の伝統」に沿ったほうがおいしい。ということで、
極力「ニッポンの味」で・・・。

     
出汁をとったり、下ごしらえをして、まずはアミューズブーシュ。松茸1個とカレシ菜園の
きゅうりでベジタリアン風ポケ。刻んだ松茸をさっと炒めて、同じように刻んだきゅうりと
混ぜ、にんにく入りマヨネーズで和えた。スパイスは山椒とゆず。

     
次に、「どびん蒸し」風。松茸3本をスライスして、ぼたんえび2尾ずつ。松茸もえびも地元
の産。本には「みつば」と書いてあったけど、ないからコリアンダーで代用して、すだち
の代わりにかぼすの果汁。おいしいの何のって・・・もちろん、松茸のお手柄だけど。

     
カレシが好きな松茸のフライ。1本を4枚にスライスして、粉、溶き卵、パン粉とつけて普
通に揚げる。カレシ菜園のトマト、きゅうり、パセリで飾って、チリソースを添えてみた。

     
メインコースは松茸ご飯と、松茸と豆腐のお澄まし。ご飯を魚に添えようと思ったけど、
全体の量が多くなりすぎそうで、ボツ。ご飯はいつもの麦入り玄米じゃなくて、白米ご飯。
初めのコースを食べる頃から炊き始めて、フライの前に松茸を加えて、ちょうどいいタイ
ミングで炊き上がり。蒸らしている間に、松茸の最後の1本ときのうチゲを作った後に少
しだけ取っておいた豆腐でお澄ましを作る。フライの溶き卵の残りに細く切ったにんじん
とねぎを混ぜ、貝割れを載せて即製の卵焼き。

ちょっとぜいたくな「松茸づくし」で、とうとうパックに8本か9本入っていたのをぜ~んぶ
食べてしまった。香りや形で日本産にはかなわないけど、カナダの松も捨てたもんじゃ
なくて、それなりにおいしさいっぱいの秋の味。ああ、満腹の食欲の秋・・・。

仕事が終わって外の世界を見たら

2013年09月07日 | 日々の風の吹くまま
久しぶりに大まじめに仕事に打ち込んだもので、首の後ろがコチコチ。何しろナノの世
界なもので、やたらとギリシャ文字だらけの数式が出て来たりして、pなんだかρなん
だか、kなんだかκなんだか、どっちだ~?と目を凝らしていたもので、目はしょぼしょ
ぼ。いやあ、それでも、仕事したぁ~!という気分はやっぱりいいもんだ。

東京、オリンピックを獲得したんだ。ま、お祭りの準備で忙しくなるだろうから、これでし
ばらくはうっとうしい放射能のことは忘れられるね。でも、オリンピックはどこがやっても
大赤字だけど、お金は大丈夫?東北復興や東電の尻拭いの予算を削って、「東京」の
オリンピックに注ぎ込むなんてことはないだろうね。ま、「世界中からお客が来るから、
何としても放射能を掃除しなきゃ」という動機付けになるなら、オリンピックを東京にやら
せる意味があるかな。

婚外子の相続差別違憲判決で、小町横丁は納得が行かない人たちが大騒ぎ。あそこ
はすぐ慰謝料請求!とわめく人が多いから意外でもなかったけど、ずらっと並んだ違憲
判決批判の書き込みの「毒」にはびっくりしたな。だって、法的な差別で婚外子として生
まれて来た「罪」を罰するべきで、それが婚外子の出生で傷ついた妻や婚内子の心の
支えになるってんだから、恐ろしい。この人たちの人権意識の欠如や自分で意識して
いない深い差別意識が図らずも露呈したってことだけど、ショックだなあ。まあ、これが
本音なんだろうけど・・・。

この人たち、vindictiveそのものだな。「懲罰的」という形容詞だけど、「人を痛めつけて
やりたいという悪意に満ちた報復願望というニュアンスの強い処罰感情を持っているこ
と。でも、「実父」の遺産に対して相続上の同等を求める婚外子が金目当てと言うなら、
妻も結婚してしまえば夫の財産は自分のものだと思っているから、他の女が生んだ子
(夫の「実子」)にはやりたくないと言っているわけで、突き詰めると「お金」。ま、人間、
お金の話になると平等も何も目に入らなくなるもんで、男の年収がどうのこうのと、今ど
きの日本女性の結婚の価値基準は「お金」という印象だから、議論では肝心の遺産の
主である「夫」の影がえらく薄いのもうなずけるような・・・。

ちょっぴり駅前外国旅行

2013年09月06日 | 日々の風の吹くまま
いつの間にか金曜日。食料買出しの先延ばしを決め込むカレシに付き合っていたら、
野菜もランチの食材も底をついて、ど~するの? ワタシが引退に向けて仕事を減らし
始めたもので、昔のように家事をぜ~んぶやってもらえないかなあ・・・なんて心の奥の
奥で思っていたりしてね。残念でした。ワタシは仕事をやめても「専業主婦」への再就職
はなしなんだから。

それでも、トラックのバッテリが上がったもので、充電を理由にやっとお出ましの決意。
カレシもやっとそろって出不精の2人に車2台はめんどうだと理解し始めたようで、ミニ
バン1台にするというワタシの案に傾いて来たかな。ミニバンならトラックとそんなに大
きさは違わないし、トラックよりも融通が利くし、あんがいワタシも運転するかもしれない
し。週日の午後だから道路はかなり混んでいて、あちこちでのろのろ運転。タイヤ18個
で走る巨大なトレーラートラックの間に挟まれると、ピックアップと呼ばれるうちのタコマ
はトラックなのに何ともちっちゃい。ねえ、ミニバンにしようよ~。

遠出するときの買い物はHマート。韓国系のスーパーだから当然韓国の食品が多い。
ハングルを読めないから値札の英語表記が頼りで、買い物はけっこう時間がかかる。
昼間なのでいろんな試食スタンドがあって、日本のスーパーのおばさんみたいな人た
ちが大声で呼び込み。店内放送もそのにぎやかさに負けじと音量アップ。でも、韓国語
だから、私たちには「カムサハムニダ」以外は何を言っているのかぜ~んぜん。まあ、
日本語のわからない外国人が東京に行ったらこんな感じかなあ。ちょっとした「駅前外
国旅行」の気分が楽しめるな。

生の塩さんま、冷凍ししゃもに塩をしていないホッケとサバ。普通のスーパーにはない
薄切りの豚肉と牛肉もどっさり。ランチ用には冷凍ラーメンに営業用の50個入り冷凍
たこ焼き。ニラや大豆もやし、台湾キャベツにししとうと、アジア系野菜をたっぷり。つい
でにマツタケまで買ってしまった。小ぶりなのはまだ出始めだからかな。はて、この週末
はこれでご馳走を作らなきゃならないなあ。仕事、早く終わらせよう・・・。

清潔すぎるとアルツハイマーになる?

2013年09月05日 | 日々の風の吹くまま
イギリスの新聞Daily Telegraphのサイトにちょっとショッキングな記事が載っていた。
「アルツハイマー症急増は衛生環境が良すぎるせいかも」と。ケンブリッジ大学の研究
調査によると、アルツハイマー症の発症率は、開発途上国と比べて、都市化と衛生環
境の整備が進んだ先進国の方が高いんだそうな。

世界192ヵ国の出生率、平均寿命、年齢構成を考慮しても、感染症の多い中国やガー
ナに比べると、感染症の少ないスイスやアイスランドでの発症率は12%も高い。都市
居住率が全人口の10%以下のバングラデシュやネパールと比べて、全体の4分の3
が都市部に住むオーストラリアやイギリスでの発症率は10%高い。また、ヨーロッパに
比べて、ラテンアメリカ、中国、インドでは発症率が低い。さらに、同じ国でも都市部の
方が農村部よりも発症率が高かった。

たぶん、急増しているアレルギーなども同じ仮説にたどり着くんだろうと思うけど、細菌
やウィルス、寄生虫など「被曝」する機会がないと、免疫系の基幹要素である白血球の
生成に異常が起きて、特にT細胞が大きな影響を受けるそうで、中でも「調節性T細胞」
が機能不全になると炎症や自己免疫疾患が起きるとか。この細胞の不足がアルツハイ
マー患者の脳に多く見られる炎症と関連付けられている。つまり、免疫系の機能を調
節する上ではバイキンに曝されることが欠かせないということだな。

ネットの前の時代だけど、日本の新聞や雑誌を開くたびに「抗菌○○」という広告や記
事が踊っていた時期があった。キッチン用品から日用品、文房具、はては定期券まで、
何でも抗菌、強力抗菌。ついには体臭はバイキンがついたせいだと「抗菌防臭」にエス
カレート。一時の熱狂かと思ったら、未だに「抗菌グッズ」は売れ行き絶好調らしい。で
も、日本人は「キレイ好き」で超清潔なのが自慢なのはわかるけど、「無菌無臭志向」も
ほどほどにしておかないと危ないんじゃない?特に、ストレスに弱い神経質タイプの人
は、アルツハイマー症になるリスクがストレスに強い人に比べて50%も高いそうだし、
ほんとに・・・。

☆ゆとり教育と偏差値と個性の関係

2013年09月04日 | 日々の風の吹くまま
9月3日。 先週Wall Street Journalに載っていた「Japan’s Bad Education」という記事は日本人が「ゆとり教育」について体験を交えて書いたもので、なかなかおもしろかった。小学校1年生の授業で積極的に手を挙げると先生に「目だちたがり」と叱られ、算数の問題を早く解いてしまうと全員が終わるまで3度も同じ問題をやらされた。「ゆとり教育」は子供たちの個性や創造力、知的な好奇心を育てるはずだったのに、現場の教師たちは個性の扱い方がわからず、結局「みんな同じ」を強制。日本は現代のガラパゴスと言うけど、ゆとり教育はグローバル化時代を生き抜くスキルを持たない世代を生んだ、と。

まあ、文科省のお役人が華々しくぶち上げる教育指導要領はいつも能書きとは逆の結果を生み出して来たように思うけど、「ゆとり教育」が生み出したのは想像力も工夫力も足りない(言い方は悪いかもしらないけど)「マニュアル依存型おバカ世代」じゃないかと思う。この「工夫」という日本語、ぴったりした英語がないんだけど、それは「工夫すること」こそが日本人の想像力の結晶だからだとワタシは思う。手元にあるものの用途や利便性を想像を働かせて多角化させるのが工夫することで、創造力とは違う。ワタシが子供だった頃は何かにつけて「工夫しなさい」と言われたし、モノのない時代だったせいもあって、持っているおもちゃをいろいろな遊びに使ったり、廃物で遊び道具を作ったりした。

ゆとり教育については、ワタシも教材の翻訳で小学校の理科の教科書を見る機会があって(ついでに教育指導要領も読んでみたけど)、教科書の手順通りに実験して、既定の結果を確認するだけの「マニュアル教育」という印象を持った。自由研究でさえ、予め結果を想定した計画を立てさせていて、しかも計画とレポートのサンプル付き。なるほど、こうやって受験勉強に最適の思考パターンを育てるのか、これじゃあ創造力も知的な好奇心も何もあったもんじゃないと呆れたものだった。実験や観察が想定外の結果になった子はどうなったんだろう。「なぜ」を考えることもなく、「失敗」というレッテルを貼られて取り残されたのではないのかな。「なぜ」を考えさせたら、本来想像力に溢れる子供たちの個性が百花繚乱になって、手に負えなくなりそうだもんね。

今は「脱ゆとり」だそうで、つまりはゆとり教育の失敗を認めたということだろうけど、「ゆとり世代」はすでに社会に出て来て、これからの日本を背負って、働いて、家庭を築いて、次の世代を生み育てて行かなければならないのに、生まれ合わせが悪かったでは済まないよね。文科省の壮大な実験がなぜ挫折したのか。記事の筆者は「日本人の同質性への固執と個性に対する不快感」とこれとは対極にあるように見える「受験の壁」を挙げていたけど、まさにその通りだとワタシは思う。「個性に対する不快感」は「同質性への固執」、つまり日本的な「平等(みんな同じ)意識」から来るものだと思うけど、「受験」は競争制度以外の何ものでもない。「偏差値」というものさしがひとり歩きして、人と同じ(点数)では競争に勝てないと、子供は「ゆとり」の時間を塾で受験知識を詰め込んで過ごす・・・。

小町の学歴関連トピックでは大学に進学しなかったのは「親が教育熱心でなかったから」、「学習意欲がなかったから」、「努力する気持がなかったから」(つまり、落ちこぼれ)と批判する人が多いけど、もしかしたら「みんな同じ」のゆとり教育と「偏差値偏向」の受験競争の矛盾がある意味でトラウマになっているんじゃないかと思うことがある。受験競争に勝って大学を出たのに人生が「計画通り」に進んでいない人ほど、受験とは無縁でいられた人が羨ましくて、逆に偏差値や学歴、教養に拘ることで自分を慰めているのかもしれないな。その例が「優しくて、まじめでユーモアのある」専門学校卒の年下の彼氏の「学力」の低さが気になって結婚をためらっている大学卒のアラフォ女性。「偏差値」で人を判断するのはイヤだけど、だけど、だけど・・・。

この偏差値、日本では教育上の重要な「ものさし」らしいけど、いったい何を測るものなのか。高校からすぐ社会に出たせいでもないだろうけど、偏差値なんて言葉は聞いたこともなかったな。でも、50年以上も前だけど、1学年だけ通知表にわら半紙に「SSカーブ」とかいう釣鐘型の曲線をガリ版刷りした紙片が付いて来たことがあった。曲線の上に×印が付いていたけど、子供は元より親も成績と関係があると言う以外は何なのかよくわからなかった。一応はクラスの「できる子」だったワタシは釣鐘の頂点に×印がなくてショックだった。ワタシの×印があったのは→[イメージ]

いかにも崖の上から転げ落ちてしまったような図で、悔しいやら、悲しいやら。でも、親もよくわからないから、納得できる説明ができるわけもなく、長い間もやもやしていたけど、あれが偏差値だったのかな。何であれ、ワタシは「外れ値」だったわけか。いつも何となく「はみ出しっぺ」だと感じてはいたけど、あの×印はワタシの「個性」だったということかな。まあ、偏差値なんてのは知能指数と同じで、今さら知っても意味がなさそうだけど、中学か高校のときに知っていたらワタシの人生は大きく違ったのかな?いや、やっぱり今ここにいる「ワタシ」になっていたと思うよ。ワタシの個性、ちっとも変わってないもの。