リタイア暮らしは風の吹くまま

働く奥さんからリタイアして、人生の新ステージで目指すは
遊びと学びがたくさんの極楽とんぼ的シニア暮らし

やったね、婚外子の相続差別違憲判決

2013年09月04日 | 日々の風の吹くまま
日本の最高裁判所がやっとのことで「婚外子差別」を憲法違反と判断したね。前々世
紀の明治時代から頑なに守り通して来た「法による差別」を、やっと、それも全員一致
の判断で、「法の下では何人も平等」という憲法の大原則に反するものと認めたわけで、
えらい!やっとこれで不条理な差別がひとつ無くなるね。

ずっと前に違憲訴訟が起きたとき、ワタシは当時衛星版を購読していた読売新聞に「子
供は親を選んで生まれることができない。子供が選ぶことのできない事由に基づいて
法が差別するのは憲法どころか、人道に反することだ」と書いて送った。(読者投稿欄
に掲載された。)「子供」を「人間」に置き換えてみるといい。誰も特定の人種に生まれる
ことを選べないし、特定の人種に生まれついたことを変更することもできない。でも、人
間は差別する動物なので差別意識は消せなくても、法治国家では差別意識の存在を
認識して、「法の下での平等」に反する差別を法律が禁じるようになった。

逆に、日本は憲法で「平等」を保障する一方で、民法が法律婚を採用しているから婚外
子の差別は不合理ではないと、法律の差別規定が国家の基本たる憲法を超越し得る
と言って来たわけ。要は、だらしない男が自分の行動の責任を婚外子(それでも我が子
じゃないの?)に転嫁し、その男の法律上の妻もその子も、家族を裏切った夫・父への
恨みを、本人に向けずにその(婚外)子を法による差別で罰することで晴らして来たっ
てことでしょ?まあ、日本人の伝統的家族観を守るとか言って婚外子差別を擁護して
来た政治家、いや社会人のどれだけが(一夫一妻の)「法律婚」を尊重して品行方正に
生きているかなんて、聞くだけやぼってもんだろうけど。

人を「平等に扱う」ということは、出自には関係なく人はみんな人間として同じ「価値」を
持っていることを認識して、それぞれを「個人」として、また、違いがあってもそれを「個
性」として尊重することだと、ワタシは解釈するけど、「平等=金太郎飴」で、金太郎と桃
太郎と与太郎では人としての価値が違うという解釈も存在するってことか。まあ、相続
に関しては、努力して財産を築いた人が遺言状によってその処分を指定できるように
すればいいと思うんだけど、それじゃ不平等を生むからダメと言われそう。 お金の話は
まったく別の次元の問題だしね・・・。

常識は大学で学んで来るもの?

2013年09月04日 | 日々の風の吹くまま
きのうは旧ブログの方で「ゆとり教育」と「偏差値」の話を蒸し返して、いつもの饒舌な極
楽とんぼに戻ってああだこうだと考察。小町横丁では、諸般の事情があって大学に進
学しなかった(できなかった)人たちを、大学卒住人が「教育に関心のない親に育てら
れたんだろう」、「勉学意欲がなかったんだろう」、「努力しない人なんだろう」と、否定的
に評価することが多い。なんか傲慢だなあと思っていたけど、きのう、ふと思った。

この人たちは「教育熱心な」親に有名大学に入るための受験勉強を強いられ、テストの
成績が思わしくないと「やる気が足りない」、「努力が足りない」と責められて育ったこと
がトラウマになっているんじゃないか、と。心の奥にあるわだかまりを受験勉強を「免れ
た」人に向けることで今の不満や不安を打ち消そうとしているのではないか、と。「その
偏差値じゃ○○大学には入れない」、「○○高校は偏差値が低いから○○大学は無理」
と言われ続けて、個人の価値も「偏差値」でしか測れなくなって、それで偏差値が合わ
ない人(自分が「常識」として知っていることを知らない人、あるいは自分が知らないこと
を知っている人)にどう接したらいいのかわからないんじゃないか、と。

常識で思い出したのが、ハーバード大学のツアーで私達のガイドだった1年生の青年
がある図書館の前で言ったこと。図書館の名前の主は、イギリスで書籍を買い集めて、
タイタニック号で帰る途中に遭難した人で、いったん救命ボートに乗りながら、「本を忘
れた!」と、制止を振り切って下りて、船と共に沈んでしまった。「つまり、ハーバードは
(学問をするところで)common senseは教えないんですよ」と。「コモンセンス」は日本
語では「常識」と訳されていて、社会通念やマナーとして誰でも知っているべき「知識」
のことを言うけど、英語的には「知識」よりも蓄積した経験や知識に基づく「判断力」や
「分別」のこと。はて、日本の大学ではどっちのコモンセンスを教えるのかな。

ちなみに、ときたましか更新しなくなった旧ブログへのアクセスが今でもかなりあるから
不思議。なんちゃらかんちゃらと長々と論評するもので、ボットが引っかかるキーワード
が多いのかもしれないけど、どうなんだろうな。

偏差値とは何ぞや

2013年09月03日 | 日々の風の吹くまま
自分「が」知っていることを相手「は」知らなかったら、どう思う?もしも自分「が」知って
いることを相手「が」知らなかったら?自分「は」知っていることを相手「が」知らなかった
ら?自分「は」知っていることを相手「は」知らなかったら?自分が知っていること「が」
誰でも知っているべき常識なのか?自分が知っていること「は」誰でも知っているべき
常識なのか?「は」と「が」では微妙に意味合いが違って来るから、日本語の「てにをは」
は難しいね。

大したことない大学卒のアラフォ女性が、人柄は申し分ない専門学校卒の年下の彼氏
の「学力」の低さが気になって結婚を躊躇していると悩んでいた。教育熱心な家庭に育
ったけど「偏差値」で人を判断するのはイヤだけど、だけど・・・。でも、当の彼氏が露呈
した学力不足は、知らなくても人としての価値が下がるわけじゃない雑学程度の知識。
なあんだ、「偏差値」というのは「雑学的教養(学力)のレベル」を測るものだったのか。
だったら、門前大学小僧学部(未だ)在学中の雑学博士のワタシのは高いのかな。

この「偏差値」、日本ではすごく重要なものらしいけど、いったい何ぞや?50年以上も
前、1学年だけ通知表にわら半紙(古っ)に釣鐘型の曲線をガリ版刷り(古っ)した紙片
が付いて来たことがあった。たしか「SSカーブ」とかいうもので、曲線上に×印が付い
ていたけど、子供は元より親も何のことかよくわからなかった。もしかしてあれが「偏差
値」?ワタシは一応「できる子」の範囲に入っていたので、釣鐘の「てっぺん」に×印が
なかったときはショックだったな。ワタシの×印があったのは↓
     
まるで崖の上から転げ落ちたような図だったので、悔しいやら、悲しいやら。でも、親も
よくわからないから、何が良いのか悪いのか説明できるわけもなく、その後は一度もあ
の釣鐘にお目にかからなかったけど、かなり長い間もやもやしていた。偏差値は具体
的に何を測るものなのか。まあ、知能指数と同じで、今さら知っても意味なさそうだけど、
中学か高校のときに数字を知っていたらワタシの人生は大きく違っただろうか?想像す
るとおもしろそうだけど、いや、やっぱり今ここにいる「ワタシ」になっていたと思うな。

のら猫にも仁義があるのだ

2013年09月02日 | 日々の風の吹くまま
ふっと目が覚めたと思ったら、雷がゴロゴロ。雨も降ったらしいけど、そのまま寝直し。
今日は夏の最後の三連休の最後。休日なのに「Labour Day(労働の日)」とは、これい
かに。朝食のテーブル挟んでなぜか「ゆとり教育」についてああだこうだと討論。

まあ、記事中の「日本人同質性への固執と個性に対する不快感」がゆとり教育挫折の
ポイントということで意見が一致したけど、朝っぱらからよその国の教育制度の討論も
何もないもんだ。午後いっぱいかけて仕事。納品して、これで「休み」モードに復帰!と
思ったら、入れ替わりに別のところから仕事。あちゃ。でも、納期に余裕があるし、先端
科学技術の話だから、おもしろそう。いつもこういうのだとうれしいんだけどなあ。

カレシが「マティニタイムだ」というので、勇んでキッチンに上がったところで電話。隣の
パットが「ハリスがまたネズミを捕まえたよ」と報告。バンクーバーではスラム街から発
生したらしいネズミが徐々に生息領域を広げていると言う話だったけど、最近になって
とうとう我が家の近辺にも出没するようになっていた。ここで言うネズミはratという大き
いやつ。この数週間でハリスが捕まえたネズミは6匹。中には子猫ぐらいの大きさのが
いたから、ハリスはさしずめ「スーパーキャット」というところ。

ハリスは元のら猫で、猫好きのパットがかわいがっていた雌猫のグロリアが死んだ後、
いつの間にか現れて、食べさせてもらうようになって居ついた「風来坊」。我が家の庭も
縄張りにして、ネズミパトロールをしてくれている。人付き合いは良くないけど、人間嫌
いでもなさそうで、「宿主」になったパットとも互いに快適な距離を置いている。飄々とし
ているのは、さしずめ「木枯らしニャン次郎」かなあ。まあ、猫ってのは人間に媚を売ら
ないタイプが多いようだけど、せっせとネズミ退治をしてくれているのは、のら猫なりに
「一宿一飯の恩義」に報いているということかな。猫にも仁義があるなんて、かっこいい
じゃないの。今度ハリスの好物だと言う猫のスナックを買ってあげようっと。


割を食ったゆとり世代

2013年09月01日 | 日々の風の吹くまま
今日はまじめに(でもときどき息抜きをしながら)仕事の日。また職場のややこしい人間
模様のもつれを解いて、平和を取り戻そうという言う話。でも、こうもちょこちょこと仕事
が来るということは、この会社に平和が訪れるのはいつになるやら。シリアじゃなくて、
日本の大都会での話・・・。

背景資料と言うと大げさだけど、コピーしてあったWall Street Journalの「Japan’s
Bad Education」という記事を読んでみた。「ゆとり教育」の話で、記事を書いたのはゆ
とり教育を体験した日本人。小学校で積極的に手を挙げると「目だちたがり」と叱られ、
算数の問題を早く解いてしまうと全員が終わるまで3度も同じ問題をやらされた。個性
や創造力、知的好奇心を育てるはずが、教師たちは個性の扱い方がわからず、結局
「みんな同じ」。日本は現代のガラパゴスと言うけど、ゆとり教育はグローバル化時代を
生き抜く術を持たない世代を生んだ、と。

ワタシも教材の翻訳で小学校の理科の教科書を見たけど、あれは「マニュアル」そのも
ので、教科書の手順通りに実験して、既定の結果を確認するだけ。自由研究さえ予め
結果を想定した計画を立てさせていた(計画とレポートのサンプル付き)。想定外の結
果になった子はどうなるのかと心配になるやら、これじゃあ創造力も知的好奇心も何も
あったもんじゃないと呆れるやら。北米でも似たような「教育実験」をした時代があって、
カナダ生まれなのに英語の語彙や読解力、作文力が極端に不足して日常に支障を来
たす「機能的非識字者」が社会問題になり、その後教育方針が改められた。アメリカで
は「dumbing down(愚鈍化)」と揶揄されたけど、ゆとり教育はその日本版かもしれな
いな。

まあ、文科省のお役人が華々しくぶち上げる教育指導要領はいつも能書きとは逆の結
果を生み出して来たように思うけど、「ゆとり教育」が生み出したのは想像力も工夫力も
足りない(言葉は悪いかもしれないけど)「マニュアル依存型おバカ世代」じゃないかと
思う。今は「脱ゆとり」だそうだけど、これからの日本を背負って働いて、次の世代を生
み育てて行かなければならない「ゆとり教育世代」にとっては、生まれ合わせが悪かっ
たでは済まないよね。