遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



   ミクシィでは、日記や語り・ストーリーテリングのコミュニテー、他の方の日記 他のコミュニテーでさまざまな出会いがあり対話がある。それはとてもスリリングであるけれど ブログのようにまとめて留めてはおけない。いづれ埋もれてしまうだろう。ミクシィの対話の一部 相手の方の了解を得ていないので わたしの書いたものだけをすこし記録する。

----難しい用語についてどうしたらいいかという問いについて----

みゆさん

...わたしの場合はものがたりを聞いてくれる子どもたちの年齢やその場の雰囲気 状況を感じてケースバイケースで伝わるようにしています。 たとえばふくべなら幼い子にはさいしょからひょうたんとか他のことばに言い換えます。ことばを伝えるのが目的ではなくものがたりの世界を伝え楽しみを共有するのが目的だから...けれどふくべって若いおかあさんも半ばはわからないでしょうね。ものがたりを聴きながら推し量れるひとならそのままのことばで....ときにはものがたりのなかで ふくべって知ってる?ひょうたんのことなの そのふくべを持ってね...というように語ることもあります。

  昔話はずっとながいあいだ 口承で語り伝えられてきたものなのです。テキストに書いてあるのは、ある時期 誰かが語ったものを聞き書きしたものを 誰かが編集したものです。それなので ことばの言い換えはかまいませんと図書館の方からうかがいました。 わたしは昔話を語るとき おはなしのろうそくはお借りしないで岩波の日本昔話(文庫三巻)...元の話に近いので....から 今のことばになおし 語る年代にあわせて語っています。

....それから みゆさん
語るのに上手下手はまったく関係ありません。聴き手のこころに届くか届かないか それだけです。上手になめらかに語っても心に響かない語りもあれば、とつとつとしてぜんぜん上手じゃないけれど なにか忘れられない語りもある。 先だって語りの祭りでのこと...伝承の語り手渡辺さんがこういいました。...「語り手の名前も顔も忘れてしまっても 忘れられない語り(ものがたり)がある。それがいい語りっていうものだ」

 みゆさん 忘れられないものがたり を語る語り手になってくださいね。わたしもそういう語り手・ストーリーテラーを目指して歩いていきたいと思います。
2006年11月08日09:14



-----こころに沁みた。最初からことばを言い換えるは目からウロコだった。おはなし会は無事におわりましたという応えに-----


みゆさん

 無事に終わり一歩踏み出せて ほんとうによかったですね。もう一歩 踏み込んでお伝えしましょう、荒俣宏さんの著書で読んだのですが むかしは「はなが咲いている」このはなということばだけで 白い花か 赤い花か 大きな花か ちいさな花か (たぶんどんな香りかまで)ひとに伝えることができたそうです。ことばには力がありました。呪術的といってもいいほどの力....ゲド戦記で なまえを知る知られるということに大きな意味がありますね。それもそのようなことばの力をさしているのかもしれません。

 さて どうして ことばが力を失ってしまったのでしょう。たくさんの伝達手段ができたせいもありましょうが、わたしは人間の想像力が減退してきたためではないか...と考えています。「薔薇..」と発するとき、目のまえになにを思い浮かべますか? 気高い白薔薇...あさつゆをふくんだうすべにのばら? それともビロードのような深紅のバラ?

 これは、ヴォイストレーナー..元オペラ歌手から聞いたおはなしです。ある歌手が野ばらを歌ったとき 馥郁としたばらの香りが会場にただよったのだそうです。またあるとき演劇のワークショップで ある人がジュリエットの有名な台詞「たとえどんな名前で呼ばれても薔薇の香りに変わりはないはず...」を発したとき たしかに 薔薇の香りがしたのです。

 つまり...イメージして語る...自分自身が見て感じて、そして語る...文字から離れて....そうすれば花のいろも香りも 水の冷たさも夜の闇も伝わる....ことばの力を取り戻すとはそういうことであり、そうなれば 用語に迷うこともさほどない。むしろ そのことばで自分のイマジネーションを呼び起すことができるかどうかが問題になります。

 わたしたち語り手・ストーリテラーはことばの遣い手でもあります。ことばが本来の力を取り戻すような語りをしていけたら...と思いませんか?
2006年11月10日16:02



-----オリジナルを語りたいという応えに-----

BIJUさん

 オリジナルを語られるのでしたら、最初にパーソナルストーリーをなさることをお勧めします。たとえば子どもたちにBIJUさんの子ども時代の心に残るエピソードを語るのです。 子どもたちは昔話より真剣に聞きますよ。わたしは母との思い出とか小学校のとき それと知らずにいじめに加担していた苦い思い出とか 学校で語ります。

 人間は本質的におなじようなことで悩み苦しみ喜ぶ パーソナルストーリーはより直接的ですからこころに響くのです。「現代アメリカのフォークロア、ストーリーテラーたち」という本を読んでごらんなさい。秀逸なパーソナルストーリーを読むことができます。じつはわたしの語り手としてのスタートは自分では全く意図していなかったのですがパーソナルストーリーでした。語りの原点はそのようなものではないかと思うのです。BIJUさんが自分のお子さんや友人にとても伝えたいことを「今日ね こんなことがあったの...」と切り出す。それはパーソナルストーリーの萌芽です。

 オリジナルといってもそれは自分がなにに心を打たれなにを遣り残したか なにを目指しているかの投影 またはあこがれ...のように思います。自分のなかにないものはつくれない。語れない...表現とはそういうものです。...あふれ出るもの...自然なものです。そこに普遍性があれば ひとのこころを打ち おのずといのちを持ちます。オリジナルを語るとき。わたしの場合 書くは先にきません。語ることばをテキストに留めるという感じですね。 2006年11月10日05:14



----文字より先に言語があったはずで、文字はあくまでその言語の思いの表記でしかないことに気づいたという応えに-----

 
 会津の祭で戦争の話を語ったのは秋山さんですね。秋山さんとは刈谷のイベントでお話したことがあります。みなストーリーテラーなのですよ、もともとから。伝えたい 語りたい ともに楽しみ 笑い 悲しみも...とわたしたちの祖先はずうっと思い そのようにしてきたのだと思います。わたしたち語り手は先祖帰りなのかもしれません。

 気付いてしまうとなんでこんな簡単なことに...と思いがちですが、実はこの「気づく」ということはたいへんなことなのです。たいせつなものはすべてBIJUさんの裡にすでに存在しています。いつ気づけるか?人生の真実はたいていとても単純なものです。おたがいに気づきあうためにオファーをさしだすのはとても素敵なことです、わたしは私の持てるささやかなものをさしだすことを厭いません。BIJUさんがきづいてくださったことがとてもうれしい。あなたがひとの心を打つ語り手になるように祈っています。そして こんどはBIJUさんがつづく語り手に手をさしのべてください。 2006年11月10日15:14


....これはごく一部である。ミクシィをはじめてから わたしは大量の文章を書くようになった。わたしの信じる語りを伝えるために...ことばの力の復活のために...世界をほんのほんのすこしでもあかるくするために...そしてたくさんのひとびととつながってゆくために。....これでいいのかわからないけれど..とりあえずできることをするために。




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