おひさしぶりです。みなさまは連休をいかが過ごされましたか? わたしは8、9と縫い物をしておりました。小学校のときから家庭科の提出物を仕上げられなかったわたしが.....です。「古事記の向こう側」の写真をいただき 白麻の衣装に裾と袖をたさなければとお正月から考えていたのですが、針を手にしてみるとおもしろくて夢中になってしまいました。
お正月に縫った白麻のランプシェードの残り布と雪女の衣装の裾の残りをつかって襞を寄せたりたぐったりして、日常着ではなく巫女風のお衣装なので直観にしたがって針を動かしてゆくうちになんとかさまになってゆきました。海のなかでゆらゆらゆれているくらげのようだったランプシェードに較べると格段の進歩です。ちなみに白い麻は電磁波を防ぐ働きがあるようです。蛍光灯の電磁波を防ぐのに有効だとか、昨年夏白麻ばかり着たかったのは白い麻のふしぎな力のせいもあったのでしょうね。
そんなわけで ようやくきのう東国三社詣でのつづきに出かけました。発端は夫の”鹿島神宮に参拝しよう”というひとことだったのですが 354号線を走るうちに 東国三社のうち息栖神社にご参拝していないことを思い出し 息栖神社に最初に参拝しました。「東国三社巡り」は、江戸時代に「お伊勢参りのみそぎの三社参り」と呼ばれるほど篤い信仰を集めた旅だったそうです。これって意味深だと思いませんか?
『古事記』では、建御雷神(たけみかづちのかみ)と天鳥船神(あめのとりふねのかみ)が天下り、建御雷神が日本国の支配権をかけて建御名方神(たけみなかたのかみ) と相撲をとり、これに勝った建御雷神が日本国の支配権を握り、負けた建御名方神は諏訪に引きこもったとされています。『日本書紀』には、天照大神が武甕槌神 (たけみかづちのかみ)と経津主神(ふつぬしのかみ)を地上に遣わしたと記されています。
この武甕槌神を祭るのが鹿島神宮であり、経津主神を祭るのが香取神宮、そして天鳥船神を祭神とするのが息栖神社、総称して東国三社といいます。経津主神は破邪の剣 経津の御魂剣が神格化したものであり 天鳥船が乗り物を神格化したものならば 東国三社の中心は鹿島神宮......鹿島神宮のご神体は北方を向きまつろわぬ先住民族蝦夷を見据えているのですが、どうもそれほど単純なものではなさそうです。
出雲 諏訪 茨城は縄文の力の強い土地でした。オオクニヌシは出雲から北上しぐるりとまわって磯前神社に上陸されました。さて ぐうぜん わたしは新年早々先週 那珂湊の酒列磯前神社に参拝しました。この神社の主祭神はオオクニヌシノミコトを手伝って ヒノモトの国を平定したスクナヒコノミコトです。
また 筑波山、堅破山はじめ巨石が多いことなどもふくめ 茨城は太古からのエネルギースポットではないかと思われます。朝廷はその力を利用したのでしょう。しかし力とは正直なものです。封じ込めようとすることが別の力を生んでしまうこともあるし ほんらいの力は脈々と波打つようにあります。茨城という土地はとてもつよいものを持っています。その力を利用しようとするものは心してかからないと.....。
さて 息栖神社はとても清々しい神社でした。一の鳥居は川に面しています。この川は大海につながっています。御手洗の水に少し塩気がありました。この一の鳥居の下に忍潮井という霊泉があり 潮をおしのけて清らかな水が湧いたためにこの名がついたといいます。二の鳥居をくぐると左に稲荷神社があります。こちらのお稲荷さまは生き生きとした息吹のような存在感を感じます。ご神木も清々しかったです。
息栖神社に天の鳥船の神のほかに岐-くなど-の神も祀られています。「くなど」とは「きてはならない所」の意味。道の分岐点や村境などで悪霊の侵入をふせぐ神であり しば ちふり ふなど の神とも呼ばれ 旅人を守護する神でもありました。道端の道祖神ですね。わたしはそちらのほうにとても惹かれます。
また息棲神社には塩土老翁神(シオツチノオジ)も祀られているそうです。塩土老翁神といえば、葦原平定のあとタケミカヅチとフツヌシを塩竈(宮城県)へ案内した神、宮城県の塩竈神社の主祭神です。ヤマト朝廷のヒノモトのクニ侵略(平定)の歴史でもありますね。
さて うがった見方をすれば 東国三社参りが 伊勢参りのあとのミソギ あるいは裏参り 影参りというのは 伊勢に祀られている神のほかに 本来のおろがむ神がおわす.....ということではないでしょうか。それが鹿島神宮、香取神宮、息栖神社の祭神というのは自然ではない.....というのもこの三人の神さまタケミカズチノカミ フツヌシノカミ、アメノトリフネノカミはアマテラスの命によりオオクニヌシに国譲りを迫ったのですから、もっと太古のもともとの神さまを影でこっそり拝んでいたのではと、つい考
えてしまうのでした。
写真はあとでUPします。
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