真央ちゃん どうか間に合いますようにと祈っていましたが 間に合わなかったのですね。でも 帰ってきてほんとうによかったと思います。今日は悲しくて悲しくてなりませんでした。匡子さんの死を心から悼みます。
わたしは小学生のころから新聞が好きでした。我が家では 朝 新聞の争奪戦が繰り広げられたほどです。毎日を20年 そのあとは朝日でした。浅沼委員長暗殺も安保闘争もベトナム戦争の終結も新聞で知りました。教育の森 を愛読していました。新聞に書かれていることはみな真実 社会の木鐸と信じて疑いませんでした。
その信頼に疑念が指した最初が 浅田真央さんのことでした。フジテレビなどの不可解な報道だけでなく新聞もおかしかった。当時 毎日新聞をとっていましたが 記事も写真も浅田選手の扱いがおかしかったのです。なぜ おかしいかわかったかといいますと わたしはフィギュアスケートを50年近く見つづけてきました。まだこんなにもてはやされるまえ 真夜中近く NHKでひっそり放映されていたときも見ていました。歴史に残る ”ボレロ”も見ました。
浅田真央という選手が不世出の選手であること 技術だけでなく美しさという点においても類稀であり 音楽とほんとうの意味でひとつになるというごく限られた選手にしかゆるされない翼を持っていると確信できたからこそ 報道の奇妙さに気がついたのです。絶対的なスケールに照らしあわせれば 小手先のごまかしなど白昼のイルミネーションのようなものです。
それでは 浅田選手はどのようにしてその輝きを自分のものにしたのでしょう。天分があったかもしれない、間違いなく血のにじむような努力もしただろう.....けれど 浅田選手が他の選手にも大きな影響をあたえ フィギュアスケートを変えるまでの選手に成長を遂げたのは おかあさんの力なしには考えられないと思います。
「決めたことを最後までやりとおす」ことを子どもたちに求め 山田コーチに娘たちを炊くし 毎日長いときは20時間の練習をさせた母でした。毎日 娘の足をマッサージする母でした。オリンピックのころは競技場に行くことはおろか実況さえ見られなかった母でした。
匡子(きょうこ)さんは真央さんの力をよく知っていたはずです。ですからいわれなきバッシングや ジャッジに いやというほど傷ついていたと思います。親というものは自分が叩かれるより子どもが叩かれるほうが何十倍もつらいものです。どんな思いでわが子をみつめ 守ろうとしてきたか 察するにあまりあるものがあります。
真央さんはカナダのオリンピックのあと「メダルをとります」と天真爛漫にはいわなくなったように思います。かわりに口にすることばは”できることを精一杯やる””ベストを尽くす” .......それはアスリートとして自分を乗り越えてゆくという絶対無比の目標です。....... でもうらを返せば メダルが必ずしも努力と実力に対して与えられるのではないことを骨の髄まで知ってしまったという切ない一面もあるのではないでしょうか。
日本中でおおぜいのひとが今夜の月をみたことでしょう。そして多くの方が匡子さんの死を悼んだことと思います。匡子さん あなたが丹精こめて愛情こめて育て 守った真央さんは フィギュアスケートを超えて 多くのひとの希望になりました。多くのひとが勇気付けられ 明日へ向かっていく力をもらい 多くのひとが真実に気がつくきっかけをもらいました。わたしもそのひとりです。ほんとうにありがとうございます。おつかれさまでした。やすらかにおやすみください。
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