稲荷神社が どのように変容していったかはあとで お伝えしたく思います。
稲荷信仰がありますが じつは.....ものがあります。わたしは 摂社末社のなかでも 細心の注意をはらい 参拝させていただきます。
⇒ こちら
以下抜粋
日本の文化の基礎は秦氏が創った?秦氏は言うなればエンジニア集団であり、政治的な成功を求めず経済的な成功のみを求めた。
昔の中国や朝鮮は、秦氏の価値をよく理解できなかったらしい。 だから、秦氏は昔の中国や朝鮮を去り、日本に定住し同化した。
秦氏は、中央で伊勢神宮や東大寺の大仏などの巨大な建物の建造にも寄与したが、 日本全国にも散らばり、稲荷神社や八幡神社などを作り、 彼らの文化と技術(景教、建築、絹、薬など)を日本に広めた。
「 初期の天皇の系譜について」を引用。
応神天皇の時、記録にあるように、大陸から渡ってきた秦氏一族(120-127県(あがた)=数千人から1万人規模)が、 天皇に協力し、大和朝廷の設立に初めから関わったことになる。また、このときから急に古墳が巨大化し、秦氏の土木技術が用いられたと考えられる。
秦氏は、朝鮮東部の新羅経由で日本に来たが、 新羅は中国大陸からの漢族以外の逃亡民(秦人、新羅は元、秦韓と言った)で構成されており、 五胡十六国時代の前秦滅亡(394)、後秦滅亡(417)と時代が一致している。すなわち、秦氏は、チベット系(前秦・(てい)、後秦・羌(きょう))の民であり、 羌は、アミシャブ(イスラエルの10部族調査機関)が発見した、現在の中国四川省のチベット系少数民族の羌岷(チャンミン)族と同じであり、 彼らは失われたイスラエル10部族のひとつであるマナセ族の末裔であると自称し、 アミシャブからも認められている。
秦氏によるユダヤ文化の導入:
ここで、最も驚くべきことは、大和朝廷を建て上げるために天皇家を大いに助けた秦氏一族は、 クリスチャン、しかも、ユダヤ教的な(あるいは、ユダヤ人の)、 しかも、原始キリスト教徒(一部、景教徒も含む)であったことである。それは、秦氏が設立にかかわった宗教的な建物や習慣に、 ヘブライ語や旧約聖書の儀式・慣習といったユダヤ性だけではなく、 新約聖書からの教理や教えが、秦氏が渡来した初めから含まれているからである。
伊勢神宮の外宮
外宮が建てられたのは21代雄略天皇の時(内宮は11代垂仁の時とされるが詳しいことは分からない)と 言われている。神道用語で「造化三神」である、アメノミナカヌシ(豊受大神)、クニノトコタチ、ウカノミタマ(顕現の神、稲荷大神)は、 明らかにキリスト教の三位一体(それぞれ、父なる神、子なる神、聖霊)を表している。外宮には、このうちのアメノミナカヌシ(天の真中に座す神=父なる神)が祀られている。秦氏は、内宮で祀られている、カナンやエジプトの地にもあった偶像崇拝起源の「太陽神(アマテラス)」ではなく、 旧・新約の両方に共通の「父なる神」を祀ったのである。
稲荷神社
景教(ネストリウス派・東方キリスト教)では、イエス・キリストのことを、 しばしば、「JNRI」、あるいは、「INRI」と表現する。これを読むと「インリ」、すなわち、「イナリ」となり、「稲荷」は当て字である。安閑天皇の時代に、秦氏はイエス・キリスト神社として稲荷神社を建てた。最初に建てられた稲荷神社は、和歌山県有田市の糸賀稲荷で、 この地方は現在も「王子信仰」が盛んな地でもある。建立時の稲荷神社は霊験あらたかで、瞬く間に日本全国へ広がった。 (狐が祀られるようになったのは、後の8世紀になってからで、空海による)
「 稲荷神(Wikipedia)」を引用。
日本にある稲荷神社は2万社とも3万社とも言われており、 屋敷神として企業のビルの屋上や工場の敷地内などに祀られているものまで入れると、 稲荷神を祀る社は無数と言って良いほどの数になる。本来は穀物・農業の神であるが、現在は産業全般の神として信仰されている。
八幡神社
「 八幡信仰」を引用。
八幡神社のルーツは宇佐八幡宮
八幡系の神社は稲荷社についで多く、その数は全国に二万ともいわれる。 その起源は大分県宇佐市の宇佐神宮にある。神格の起源については不明な点が多いが、もとはこの地の土俗的な神だったと思われる。 本来の神格については、海神・鍛冶神・渡来系の秦氏の氏神など諸説がある。豊前北部のヤハタ神と南部のヒメ神の信仰が融合したとも考えられている。
以上
このヒメ神についてはヒミコ? 宗像三女神 等の説があるが わたしは瀬織津ヒメではないかと思っています。