遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



 

わたしは9月8日 晩    娘とたびにでました。

夜行バスに乗って 金沢をめざしたのは、いつものように直感に従ったのです。金沢……石川県への旅は 毎回  運命を大きく変えるたびとなりました。

12年くらい前 わたしは金沢で開かれた RADAに参加しました。文学座の友人からその指導法の画期的なことを聴かされ 参加したのです。松たか子さんやイエロウズの山下晃彦さん  演劇倶楽部 座  で  壤さんの片腕だった方……も受けていた と聞いたのはずっとあとのことでした。

RADAのふたつの柱は スタニスラフスキーによるメソッドとアレクサンダーテクニークでした。じぶんとつながる すなわち 感覚 と身体 とmindの 一体化 をし なおかつ 外に向かってひらく それを可能にするための脱力です。

これはすごいことでした。 今でこそ スポーツ 芸術  あらゆる分野で  脱力の必要性が叫ばれていますが………当時は。

わたしはRADAで学んだことをテコに語りの指導に着手しました。また それとは別に 校長ニックさんの おっしゃった えんげきにおけるトランス状態 は 自分に起きていることをはじめて立証していただいたといういみで大きなことだったのです。

そして40年前  金沢で 出会ったことは  もっと 本源的なことでした。 具体的には 申し上げられませんが  わたしは 生き続けるために わたしのなかのもっとも瑞々しく やさしく やはらかな 蕊 をすてたのです。

語りを 教えることを やめ 自分のもとめる 本當  へ向かうために わたしには 金沢への旅が 必要でした。わたしは 真冬の月の公園に置いてきた   ワタシを今こそむかえにゆこう と思った……それが 9月8日になったのは  9月9日に 白山比神社で祭祀があり、そこでknobさんが イダキ 、デジュリドゥを献奏すると聞き 運命的なものを感じたからです。

朝 到着した時   金沢は雨もよいでした。県立美術館  休館   リュ ミュゼドゥ アッシュというカフェに入ったのも 今思えば  啓示のようなものでした。

午後   白山比じんじゃにご参拝し 突然 ご祈祷を受けようと思ったのも。

心願成就のご祈祷を受けた後   陽光が射し  あおぞらがひろがりました。奥山でその朝 土砂降りの中 knobさんたちはごしんじ ご神事をなさったそうです。

颱風18号は 伊勢から入り 白山市から抜けました。

夜の神ごと……

 

踊っているのは  瀬織津姫……

翌朝   私たちは  金剣神社参拝後   能登にむかいました。

 

里山海道の外海

40年前の  あの月の公園を探す旅でした。目当てのひとつ里山海道の終点 穴水を目指しましたが   穴水は 小さな集落   城趾公園など ありそうもないのです。

すると 道の駅で快活な若い女性が  それは 七尾 ではないかと教えてくれたのです。

わたしと娘は   内海沿いの細い国道を車をはしらせました。

 

七尾城は 前田利家が築いた 城です。わたしは石段を探した。駅から15 分 くらい歩いた記憶がある   雪を探していた。金沢で降り積もっていた雪は 温暖な七尾にはなかった。木々の影に隠れるように古びた石段……  上り詰めると  視界が広がり 月明かりに 白くゆきがのこっていた。…… ここでいい   と思った。

40年の年月を経て 木の幹は 太く 往年の面影を探すのはむつかしかった。その時 遠く 汽笛が響いた。そうだ、あのときも…… 右側がひらけて がけのようになっていた。

ここだ、ここに違いない。

迎えにきたよ、ずいぶんと待たせたね 戻っておいで……  わたしは よびかけた…… 

けれども 気配は  なかった、 待ちきれずにわたしの半身は かぜに飛んでしまったのか 樹に吸い込まれてしまったのか…… 消沈して 宿に向かう途中   娘が 車の中でなかば ひとりごとのように つぶやいた。

お母さん   お母さんの半分は ずっとお母さんのなかにいたんだよ    ひっそり隠れて まっていたんだよ

 

わたしは不覚にもなみだがこぼれた。

ごめんね    長いこと 忘れていて…… でも どうか わかって

わたしは やさしくてうす青い透明な あなたのままでは 生きてゆけなかった。

今なら 受け止められる  だから どうか かえってきて……

 

我ながら都合のいい身勝手な話だと思う。

ソンナワタシガ 信じられるかどうか わたしの半身は 待っているのではないか

もうひとつノワタシの信頼を受けられるようになったとき わたしは 統合をはたすことができる    ひたすら優しく そのうえ つよくなったとき。

まだ 旅は おわらない。

 



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何処までもつづく 湿原   原野  

あぁ  みんな アイヌの方々や動物たちから奪った

土地だ…… と思って 44号線を走っていたら

狩りをする  縄文のひとたちの姿が木々の間や草原

に見えるような気がした。

尾幌原野を過ぎて  厚岸へ……

なぜ   厚岸に来たかというと  牡蠣なのですが、

気がつくと  国泰寺…… 

 

 弔魂のことば

由来 厚岸は 美しい自然と資源に恵まれ

あなた方の楽土であった。然るに その後

進出した和人支配勢力の飽くなき我欲に

より 財宝を奪われ   加えて 過酷な労働の

ために   一命を失うものさえ少なくなかっ

たと聞く。けだし感無量である。

我らは今  先人に代わって 過去一切の非道

を深く  お詫びすると共に  その霊を慰めん

が為  心ある人びとと相代わり  東蝦夷発祥

のこの地にうら盆に 弔魂の碑を建てる。

   1977年8月15日

                  アイヌ民族弔魂碑建立委員会  

  

http://www.infosnow.ne.jp/~ho_uryu/

国泰寺も神社も荒れ果てていた。愛冠岬も

荒れ果てていた。

だが 神社に参拝させていただくと  そこには

たしかに  パワーが感じられる。それはいっ

たい何処からくるのだろう。もともと霊的な

スポット に神社は建てられるのだが   もともと

のアイヌの神々は どう思し召しておられるのだ

ろう。

 

文明とは殺戮の歴史である。 アメリカ カナダ

合わせて 5000万以上のインディアンが殺された

という記録もあるそうである。日本でも 大陸か

ら来た人たちによって  先住の蝦夷たちは次第

に 北に北に追いやられ  江戸幕府の蝦夷地開拓

 そして 明治政府が ことばを奪ったことで 抹殺

されようとしている。

 

原初の文明に現代の文明が 寄り添うことは可能

だろうか。わたしは それこそが  このどん詰まり

の現代文明の突破口 となり あたらしい文明の

あかつきになるような気がする。



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朝  釧路空港につきました。

 わかりますか。?   電線の下です。細いひとすじの線

 

釧路

 

 

厚岸



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