遠い森 遠い聲 ........語り部・ストーリーテラー lucaのことのは
語り部は いにしえを語り継ぎ いまを読み解き あしたを予言する。騙りかも!?内容はご自身の手で検証してください。
 



   おとつい 聴いた「ちいちいねずみ」と「なまくらトック」を娘に語って聞かせました。.....テキストは読んでいないので--口承--ではあるけれど”おはなしのろうそく”のなかのものがたりを語っている...それはとてもくすぐったい感じでした。でもとてもたのしかったです。「ふしぎなたいこ」と「さるのこしかけ」も語ってみました。....聴くのは別として、昔話を自分が語るとしたら、文学性の高いもの、あるいはなるべく原典にちかいものから再話するのが主義....だったのですが...それがいつのまにか頑なさとなってやはらかにうけとめる揺らぎを失っていたようです。


.....今思えば、経験が浅い負い目と語りについての熱い気持ちのはざまで自分の立ち位置を確かにしたいという気負いであったのかもしれません。けれども、組織を離れ、裃を脱いでしまえば、風に吹かれてスのわたしがいるだけです。......一面の花野に皓々と照る月のひかりをあびて、自由に歩いてゆけばよいのでした。こだわりは捨て去って、心となにか遠くのはるかなものが韻きあう方向に耳を澄ましていけばよいのでした。



   さて、古代日本には、紀元前1、2世紀頃から紀元4、5世紀頃、先住民族の古代国家があちこちに存在していたといわれます。津軽半島にあった東日流王国、蝦夷の日高見国、大分県の国東半島にあったとされる国東王国などです。

   これらの王国はなぜか記紀にはまったく記載されていません。当初から書かれていなかったのでしょうか。それともその後江戸時代にいたるあいだ、何度か書き直されるあいだに意図的に消されてしまったのでしょうか。わたしたちにとって出雲風土記が残されたことと、先日書かせていただいたように平成12年に出雲大社において巨大な神殿の心柱のあとが発掘され、48メートル(一説には76メートル)もの威容の建物があったと確認されたことはしあわせなことでした。今後も大きな発見があるといいですね。

   古事記日本書紀が編まれたのは、内外に大和朝廷の正当性を知らしめるためでした。そのためにそれぞれの豪族に伝わる歴史をまとめた...というようなことが書かれています。記紀について考えるとき、スサノヲという神の二面性について考えずにはおられません。出雲風土記でのおおらかなスサノヲと古事記の子どものように奔放で荒ぶるスサノヲはまるで別人です。

   記紀におけるスサノヲノミコト(須佐之男命・素盞嗚命・素戔嗚尊)の存在は天孫族(アマテラス一族)の出雲族への優位性を際立たせるために必要だったという説があります。出雲風土記には有名なヤマタノオロチの逸話はなく、スサノヲは天孫族の神話と出雲神話をむすびつける重大な役割をしています。天孫族...天津神、出雲族....国津神の序列をはっきりさせ、天から下ったおれたちは特別なんだぜといいたかったわけですね。逆にいえば出雲王国が見過ごしにできないほど強大だったということになりますね。

   さて、記紀では高天原を追われたスサノヲは出雲の始祖となり、世代に5世代の差があることはさておいて、ここにオオクニヌシの登場です。オオクニヌシは兄たちからいじめられたりスサノヲの与える試練をくぐりぬけたりしてスサノヲの娘、スセリヒメと結婚します。それからスクナビコの力を借りて出雲を豊かな強大な国にしてゆくのです。山陰から北陸にいたる日本海沿岸、九州から近畿地方、東北をのぞく東日本までその勢力は及んでいたようです。

   アマテラスはオオクニヌシに使いを出して、この国はわたしの子孫が治める国である。...と言って、記紀のうえでは、円満な話し合いの結果国譲りがされたようになっていますが、実際は大きな戦いがあったのではないでしょうか。天孫族は力で出雲王国を制圧し、出雲王国が滅ぼされたあと大和のトミビコ(ナガスネヒコ)らが果敢に戦うのですが次第に滅ぼされ、天孫族は律令国家の基礎をつくり大王-オオキミは天皇と呼ばれるようになります。ここに朝廷が成立します。

   調べてゆくと、わたしの弟たちの名づけをしていただいた武蔵一ノ宮氷川神社に祀られている主神はスサノヲノミコトだとわかりました。そして三室にある氷川女体神社に祀られていたのはスサノヲの妻であるクシナダヒメだったのです。氷川神社の神池は見沼の名残で、もともと氷川神社は見沼の水神を祀ったことから始まったと考えられていると知ってわたしはびっくりしました。

   なぜなら、見沼(神沼)と氷川女体神社は10歳頃から17.8までわたしの聖地だったのです。自転車に乗っては、当時は辺鄙で森や田んぼのなかにあった女体神社に行ったものです。氷川神社のまえに水路で区切られた円形の島があって、わたしはその場所がことに好きでした。5キロは優に距離があって、運がよければたどり着くし、迷子になって戻ってくる日もありました。一度父に連れられていったとき、父はどんなに由緒のある御社か教えてくれましたが、かすかに父の懐かしい声が耳奥に木霊するばかりで内容を覚えていないのが残念です。....サイトの写真を見ましたら、円形の島というのが祭祀嶽舟祭の遺跡のあとだったようです。当時は細いあぜ道で右手にいまにも倒れそうなしもた屋が建っていました。春はすみれやたんぽぽが咲き乱れておりました。

   話がとびましたが、出雲のことや物部文書...(のちに書きます)を読む限りホツマツタエは偽書か正書か微妙な気がします。ホツマツタエはあまりに道徳的すぎ調いすぎている感じがするのです。古代の息吹、勢いのようなものが薄いような気もします。そしてオオクニヌシが再び東北の地で宮殿をつくったとは考えにくい....大和に滅ぼされてしまったようにわたしには思えます。.....それともオオクニヌシの一族が流れたどり着いたということでしょうか、日高見の国についてはホツマツタエに書いてあります....まだ過程ですのでまた考えが変わるかもしれません.....。

   いずれにしても スサノヲノミコト、オオモノヌシノミコト、オオクニヌシノミコト、は謎の神々です。スサノヲ、オオクニヌシは日本に元からいたひとびとの頭領だったのでしょうか、それとも天孫族よりはやく日本に渡来した一族なのでしょうか。オオモノヌシはアマテラスオオミカミ以前のもっと古い太陽信仰にかかわる神のようです。いつかあたらしいものがたりを語りたいものだと思います。日本の先住民族のものがたりを語りたいと思います。

  ...語りをとおして、日本と日本人のおおもとを考えてゆきたい。このうつくしい”くに”の山や川や木や花々、砂そして波、曙、宵闇、狭霧、時雨....自然をとおして、永い永いあいだひとびとが培ってきた大いなるものへの尊崇を知って、うつくしい怖ろしいものがたりを語りたいものだと思います。地下の水脈は深い地の底を網の目のようにむすんでいる。...ですから日本を深く知ることは世界のものがたりもより深く知ることにつながると信じて....。




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