今日の休日のバッハは、カンタータ第99番より冒頭の合唱です。
歌詞の日本語訳は以下の通りです。
「神の みわざこそ ことごと 善けれ 始めたもう 道に
ただ 従いゆかん わが神 悩みを 知りて
支えたもう 主に よりたのまん」(大村恵美子訳)
歌詞の意味はともあれ、この合唱の軽快なテンポは筆者のお気に入りです。
このカンタータはコラールカンタータと呼ばれ、「神の御業はすべて善きことなり」というタイトルを持つ98番から100番までのカンタータを指します。
この世に神というものが存在するなら、そしてその神が全能なら、将来起こるべき全ての厄災を予見できるため、そうした厄災がこの世に起こらないよう、神は事前に厄災を取り除くことが出来るはずです。しかし、この地球上には太古の昔から今日まで厄災が後を絶ちません。これは神の存在証明を困難にする1つの論拠となっており、ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟などの主題の1つです。
しかし、神は全能であるからこそ、人間にヨブ記にあるような厄災をあえて与えて、それを通じて神への信仰の深さを試しているという側面もありそうです。
ここで話は一気に飛びますが、資本主義の精神を生み出すにあたって決定的役割を演ずるものは何か?との問いに対して、カルヴァンは有名な予定説を唱えます。予定説とは、誰が救済されないかは神が一方的に意志決定するという考えであり、因果律とは正反対のものです。人が救済されるかどうかは天地創造のときに既に決まっているとすれば、カルヴァンは、神に救われる予定の人は「そのことを証明するように振る舞うであろう」、と言いました。
このことが資本主義の精神を支えるエトスの根本的変化を起こした訳ですが、誰もが寝ても覚めても自分の良心に照らして正しいことをしなければならないとしたら、伝統主義(しきたり、掟など)には構っていられなくなります。そこで伝統主義をかなぐり捨て、目的合理的な考え方にエトスが大転換を起こすということになった訳です。
この中から、労働を尊ぶ精神(労働それ自身が救済である)が生まれてきました。
カトリック修道院の中では、「祈りかつ働け」というスローガンがありましたが、パウロはこれを「働かざる者食うべからず」と言い、この修道院の中だけの考えを、宗教改革は一般に開放したことで、資本主義の精神そのものを発生せしめたことになります。
「自分の良心に照らして正しいことをする」ことを正義を考えるときの主題に据えることで、コミュニタリズム(共同体主義)のもつ限界を打破しようというのは、例のハーバード白熱教室のサンデル教授の立場ですが、これが出来ていさえすれば、人類が大規模な戦争や大不況やバブルを起こして、大いなる厄災を招くことはなかったのにと思います。自分の良心に照らそうにも、その自分の良心を持てない何らかの欠陥が、現代の資本主義には内包されていたのかも知れませんが、そのことが今になって少しは人類を反省に導いているとすれば、そうした過去の厄災も、結局は人類が生き延びるための神の采配であったのかも知れません。
さて、前置きが長くなりましたが、いつものようにここをクリックして、ウィンドウズ・メディア・プレイヤーでお聴き下さい。期間限定の公開です。
歌詞の日本語訳は以下の通りです。
「神の みわざこそ ことごと 善けれ 始めたもう 道に
ただ 従いゆかん わが神 悩みを 知りて
支えたもう 主に よりたのまん」(大村恵美子訳)
歌詞の意味はともあれ、この合唱の軽快なテンポは筆者のお気に入りです。
このカンタータはコラールカンタータと呼ばれ、「神の御業はすべて善きことなり」というタイトルを持つ98番から100番までのカンタータを指します。
この世に神というものが存在するなら、そしてその神が全能なら、将来起こるべき全ての厄災を予見できるため、そうした厄災がこの世に起こらないよう、神は事前に厄災を取り除くことが出来るはずです。しかし、この地球上には太古の昔から今日まで厄災が後を絶ちません。これは神の存在証明を困難にする1つの論拠となっており、ドストエフスキーのカラマーゾフの兄弟などの主題の1つです。
しかし、神は全能であるからこそ、人間にヨブ記にあるような厄災をあえて与えて、それを通じて神への信仰の深さを試しているという側面もありそうです。
ここで話は一気に飛びますが、資本主義の精神を生み出すにあたって決定的役割を演ずるものは何か?との問いに対して、カルヴァンは有名な予定説を唱えます。予定説とは、誰が救済されないかは神が一方的に意志決定するという考えであり、因果律とは正反対のものです。人が救済されるかどうかは天地創造のときに既に決まっているとすれば、カルヴァンは、神に救われる予定の人は「そのことを証明するように振る舞うであろう」、と言いました。
このことが資本主義の精神を支えるエトスの根本的変化を起こした訳ですが、誰もが寝ても覚めても自分の良心に照らして正しいことをしなければならないとしたら、伝統主義(しきたり、掟など)には構っていられなくなります。そこで伝統主義をかなぐり捨て、目的合理的な考え方にエトスが大転換を起こすということになった訳です。
この中から、労働を尊ぶ精神(労働それ自身が救済である)が生まれてきました。
カトリック修道院の中では、「祈りかつ働け」というスローガンがありましたが、パウロはこれを「働かざる者食うべからず」と言い、この修道院の中だけの考えを、宗教改革は一般に開放したことで、資本主義の精神そのものを発生せしめたことになります。
「自分の良心に照らして正しいことをする」ことを正義を考えるときの主題に据えることで、コミュニタリズム(共同体主義)のもつ限界を打破しようというのは、例のハーバード白熱教室のサンデル教授の立場ですが、これが出来ていさえすれば、人類が大規模な戦争や大不況やバブルを起こして、大いなる厄災を招くことはなかったのにと思います。自分の良心に照らそうにも、その自分の良心を持てない何らかの欠陥が、現代の資本主義には内包されていたのかも知れませんが、そのことが今になって少しは人類を反省に導いているとすれば、そうした過去の厄災も、結局は人類が生き延びるための神の采配であったのかも知れません。
さて、前置きが長くなりましたが、いつものようにここをクリックして、ウィンドウズ・メディア・プレイヤーでお聴き下さい。期間限定の公開です。