今日の休日のバッハは、BWV234ミサ曲から、第6曲クイ・トリスのソプラノのアリアです。これは5月29日にご紹介したカンタータ179番からの編曲です。(ファイルは既に削除済みです。)
テンポや曲想は良く似ておりますが、細かな部分ではかなり異なっております。当時は、亡き妻の介護に苦悶しながらご紹介しました。今またこの編曲の悲しくも美しいアリアをご紹介するのは、全く筆者自身の心の内から湧き出てきたものです。
ところで、写真のカンタス・ケルンという演奏者の本拠と思われるケルンは、30年以上前に妻と二人だけで行った初めての海外旅行で立ち寄った思い出の場所です。ヨーロッパで初めて見た黒くくすんだ天を突き刺す大聖堂には圧倒されました。
詩人の岩成達也は、「みどり、その日々を過ぎて」の詩集の中で、妻を亡くして3ヶ月は立ち直れなかったと言っておりました。しかし、これはあくまで肉体的な回復への道のりの長さだったことに、3ヶ月半たった今、気づかされております。そう思って、もう一度この詩集を開いてみると、そのことを如実に書いておりました。少し長いのですが引用します。
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(マドリガル)
この地へ流れ着いてから 僕らはいつも孤独だった 君には兄の家族があり 本当の友達も少しはいたが それでも 僕らはいつでも孤独だった
だから君が突然召されて 三月ほどというものは 来る日も来る日も横になり ただ日の移りだけを感じて過ごした 孤独な二人から一人を引いたら 残りは多分人でなくなる
そんなある日 横たわっている床が先へ先へと廊下のように迫りだした そして廊下の一番向こうに 蹲っている君の懐かしい影がはっきりみえた いま縊死すれば 真直ぐあそこへ飛んで行けると僕は思った (主よお許し下さい 私はそのとき受洗したことを忘れていたのです)
だがそのときだ 透き通った君の体が 限りなく僕の体に近づいたのは 何粍という至近距離で 僕の全身は君の全身にすっぽりと包まれ 君が好きだったブルー・グレイや淡いラベンダー色の靄の中
荒れすさんでいた僕も僕の体も そのときぴたりと鎮まったのだ それからなのだよ あいも変わらず僕らは二人で孤独なのだが 僕だけが唯一人ここに「在る」のではないと信じられるようになったのは
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先日読んだ国立がんセンターの名誉総長の垣添忠生氏が書いた「妻を看取る日」という話題になった本。ここにはやはり3ヶ月で肉体的には底を打ち、半年後にようやく日常生活に溶け込むことができるようになったと書いてありました。
今、そのことを実感しております。筆者の場合は岩成達也が廊下の向こう側に見た懐かしい影というのは、3ヶ月経った頃に見た夢の中でした。全く世界が変わったような感触が体全体を覆い、同じ寝室の襖の側に佇む妻が突如現れ、欣喜雀躍して思わず抱きついてしまった自分がおりました。その直後、夢から覚めて現実に戻りました。
この出来事と前後して、大学病院に献体に出している妻と一緒に行った海外旅行の時に撮った写真から、気に入ったものを数枚大きなサイズに焼き、それを額に入れて、その前にキリスト者だった彼女に相応しい十字架の置物を置き、二人を繋いでいた携帯電話も置き、大学病院の慰霊祭で貰った羊羹と生前好きだった柿を供えた空間が、知らず知らずのうちに出来上がっておりました。
今日そこに花を添えました。彼女が好きだった瑠璃色の庭に咲く花も一緒に添えて。
話が随分と長くなってしまいましたが、今日の休日のバッハのソプラノのアリアも合わせて妻に捧げたいと思います。
最後に、筆者がこうして今もこの世の時を変わらずに過ごすことが出来ているのは、拙いブログやツイッターを毎日見て下さる沢山の方々のお陰です。とりわけ、あの時にメールをお送り頂いたり、ブログにコメントを下さった方々に、改めて御礼致します。どうもありがとうございました。
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追伸:しかしながら不思議な出来事が起きました。今回のアリアはCDの6番目のトラックに収録されております。いつもはパソコンにCDを挿入して、その6番目だけをチェックを外してPCに取り込む手順なのですが、今回に限り、何もしないで取り込まれておりました。事実ですが、どうにも合点が行きません。
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